植民地朝鮮の日本人宗教者
記事題目
「外國布敎の企」
作者
雑誌名
『日宗新報』
号数等
401
年月日
1891年8月18日
本文
外國布敎の企 は餘輩記者も大ひに賛成す所なるが今回朝鮮國釜山港にある日蓮宗信徒より布敎の爲め航海の請願せしにつき旭僧正より宗務院へ出願したり今其の願書及ひ手翰を得たればこゝに掲ぐぬ
一書奉拝呈候時氣梅雨之候愈御安泰奉恐賀候次に弊方寺旦無異消光罷在候條乍恐御放念被下度奉願上候陳は昨年來朝鮮釜山港在留本宗信徒中より尊前之御親化奉願度毎懇願申出候に付其際不取敢御内意奉伺候所宗内紛擾事件鎮定相成次第都合能布敎御遊化可被下赴御回答被成下候故其旨該地信徒へ小生より回答申遣し候所該地に於ては早速にも御渡海被遊候様に誤解候ものか不取敢御布敎の準備等相整へ一同屈指御待申居候由然るに昨年中終に御渡海も無之本年も既に半ヶ年を經過し今猶御渡海の有無も判然せさる信徒中往々不平を鳴す輩も有之信徒總代共に於て頗る申訳けに困却罷在候赴にて今復彼等總代聯印を以て懇願申出候に付不取敢本書相添へ小生よりも更に奉願上候宗内經年の紛擾事件に付東西御奔走被爲遊極て御山務も御多忙の事とは深奉恐察候得共彼の外國居留の信徒輩は殊更法雨に渇乏罷在候故其情實を御憐察被下一日も迅く御渡海被遊下度伏て奉願上候該地の事は日外上申候如く去る十六年中一宇の説敎所新築相成居候得共所謂る有名無實にて是迄布敎師其人に乏敷此れか爲め却て目下は我か宗敎も萎靡不振の姿に立到誠に遺憾の限に御座候間此際是非とも御遊化の儀奉懇願候目下宗内の事件に就き屢々御遁れ難き事情も可有之と察候得共内國の事は失敬なから御代理にて相済候事も可有之独り外國の事は布敎師其人を択されば大に佛敎全體の盛衰に關し延ひて國家の面目にも係はり候事者萬障御振擲の上是非々々御渡韓御化導の程奉願上候恐々
長崎県長崎市本蓮寺住職
明治廿四年七月四日 本県録事 貫 名 日 達 印
妙覺寺貫頂
旭僧正殿侍者御中
又同地信徒よりの願書は
御前様倍御機嫌克御消光奉大賀候當地信者中不相替無異乍恐御放神願上候陳者釜山港に於て本宗拡張の爲西京妙覺寺御貫主旭僧正様御渡海遊はされ被下度御執成の義を前年來より度々上願致候所昨年御回答の赴にては昨秋か遅くも本年春季中には必す御渡海被遊へき旨確と御示諭に付當港信徒一同暗夜に燈火を得たるの思ひをなし一日千秋と御待申居たる甲斐も無之本年も既に空く半ヶ年を經過候にも係はらず爾來何たる御沙汰もなく信徒一統最初の喜に引替大に落胆致居り候抑も去る十六年夏當港に於て本宗説敎所設立の善後意外の御配慮を要し候得共方今に至りては内外諸事整頓只御布敎さへ成し下らは外に御考慮を煩し候事は毛頭無之候間迅速旭僧正殿下御渡韓に相成候様被成下度偏に奉願上候旭僧正様よりも直接愚書を送呈の心に候得共餘りに恐縮と存し扣罷在候何卒御愍察の上宜敷御取斗願上候成
釜山港信徒總代
明治廿四年六月廿四廿日 浦田安五郎印
佐々木安治印
天本佐兵衛印
多田清之助印
大日本長崎港本蓮寺住職
貫名日達殿足下
右につき旭日苗僧正は左の願書を宗務院に差出されたり
布敎巡回願書
朝鮮國 長崎県 大分県 福岡県 熊本県
右は朝鮮國釜山港居留人信徒總代浦田安五郎外參名聯署にて長崎本宗録司大講義貫名日達の添書を要し釜山港へ布敎被成下度懇願書來着依之來る八月一日發途往返を除くの外百日間の豫定にて釜山港へ渡海仕り候に付右の県下信徒の招あらば応需布敎巡回仕り度此段相願候條至急御指令被成下度候也
京都府下山城國愛宕郡京都市上六小区下
法藏口寺參十七番戸
明治廿四年七月 日 本山妙覺寺住職權僧正旭日苗
事務取扱
權僧正小林日董殿
權僧正鶏溪日舜殿
宗務院よりは左の通り指令せり
第九號
願之赴認可候事
但し巡回地方録司へ届け出猶巡回済之上は本院へ届け出べし
明治廿四年七月十五日 同蓮宗事務取扱
權僧正小林日董印
權僧正鶏溪日舜印