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植民地朝鮮の日本人宗教者
記事題目
「日蓮宗海外宣敎會」
作者
雑誌名
『明敎新誌』
号数等
年月日
1896年8月26日
本文
會長旭日苗師が此の程日宗新報社へ寄せられたる書簡はよく該會の状況を知るに足れば左に掲ぐ
回顧すれば台湾布敎員渡邊佐野両師は其途に登られたり本宗萬歳唯だ悲愁すべきは吾人等が宣敎會也會員玉置慈圓は明治廿七年朝鮮に航し釜山仁川京城の間に布敎奔走中本年六月四日仁川敎場に於て病死す落涙一遍の唱題あらんことを本宗一般の緇素に老衲日苗伏て乞ふ朝鮮の布敎其の機を得たるも宣敎會は其の人に乏し飯尾龍進は釜山の敎務を執り元山既に許可を得たるも派遣に人なし加藤文敎京城に進行せんにも仁川敎場に主務の僧侶を欠く加藤文敎より老衲の渡仁頻りに促し來れども老ては驚馬の譬ひ心のみにて身體は大暑に苦熱して心に任せず參千餘ヶ寺五千の僧侶朝鮮國布敎其の機會を知るや知らざるや嗚呼ゝゝ之れも皆老衲が生來薄徳の招く所ろ愚は於て倍す愚也と信心弥よ增進す佛祖の加被茲に北島岱山師來りて宣敎會布敎員として韓地に渡航せんと天諸童子の金言不虚歓喜合掌唱題するの外なし北島岱山師請願其の筋より旅行券御下付相成次第渡仁被致着仁後加藤文敎歸朝衲等と會し宣敎會發起京都八ヶ本山大徳の貫主方に謀り海外布敎目下の急務朝鮮國京城將來の布敎策を議し以て賢明の吾が管長宗務院當局者に哀願せんと欲す貴社幸ひに吾人の微意を察せよ
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