植民地朝鮮の日本人宗教者
記事題目
「朝鮮を視て慊らぬ諸点」
作者
平松理英師(談)
雑誌名
『中外日報』
号数等
年月日
1911年10月27-31日
本文
七月上旬迄約二箇月間山命に依つて朝鮮へ特派されて併合後の朝鮮を視察する機會を得た、
それから中已上の者の事大思想に至つては矢張依然と同様であつて曩きに清國に倚り、露國に走り、今は我國に併合されて居るが、心の底から信服して居るかと云ふに頗る疑はしい、彼等は恁んなこと云ついて居る露國は決して日本に負ける筈がなかつたのであるけど露國には金が足らなかつた、若し金が充分にあつたなら日本に負けはしなかつたであらう、米國の如きは國も大きいし金もウンとあるから、若し米國と日本とが戦争でもするやうな事があつたなら屹度米國が勝つに違ひないと、之は恐らくは米國の宣敎師等が暗に敎唆するからであらうと云ふことである、或は事實であるかも知れぬ
朝鮮に於ける佛敎各宗は一種の圧迫の下に置かれてある、人心同化に宗敎が偉大なる力あることは今更云ふ迄も無い事であるが、今の總督政治で遣り切ると思つて居る寺内總督は宗敎を眼中に置いて居ない、併合後我が派の慧日院聯枝が行かれた時、李王朝へ訪問せられたが、王家の内事に居る日本の役人が之を遮つた爲に訪問を見合されたことがあつたそうだ、又た伊藤公爵が亡くなつた時、京城別院で公が元勲として又た朝鮮の恩人として其の恩徳に報ふべき追弔會を催したが、其の際總督の參拝を案内に行つた所が、事務官が何んかが會つて、一言の下に本願寺は政治的にやりますな、そう政治的にやられては困ると挨拶した、(中略)又た先達て厳妣の葬儀の時、李王家へ前からの縁故に依つて本願寺から御悔みに行つたが、葬儀係りの日本の役人はどうしても李王殿下に拝謁することが許さなかつた、而して其の理由は本願寺に許すと外國の宣敎師もやつて來るから許すことが出來ないと云ふことであつたそうだ、(中略)日本佛敎には恁う云ふ態度であるが一方の基督敎に対しては、京城の基督敎青年會に毎年二萬圓宛補助を與えて居る、之れは伊藤統監の時代に始めたもので政策上止むを得ないからであつたのであらうが、今尚ほ議會の協賛を得て二萬圓宛補助を與えて居る、基督敎に之れ丈けの恩典を施こすならば、佛敎には物質の補助をしない迄にも無謀な圧迫と干渉だけは廃したがよいと思ふ
▲東西両派の軋轢 最も遺憾に堪えないのは、朝鮮に於ける東西両本願寺が敎線の奪合ひ、小ゼリ合の爲に相争つて居ることである。」
▲其の一實例 今春の遠忌に東本願寺が朝鮮僧侶の參拝團を京城を中心として募集し、釜山の東本願寺別院に集合することにしてあつた、所が鮮僧團は釜山で東と西との別院を取違へて西本願寺の別院へ行つた、それを西本願寺ではマンマと西本願寺の參拝團として内地に引聯れて來た、鮮僧は京都に來つて初めて其の事實を知つたと云ふことであるが、恁う云ふ例は両方が互にやつて居る、(中略)両本願寺の局量の少なるは真宗全體の發展を阻害するものである、實に慨嘆の至りである、吾々は切に其の反省を望む次第である。