植民地朝鮮の日本人宗教者
記事題目
「海外布敎の全滅」
作者
雑誌名
『中外日報』
号数等
年月日
1903年12月24日
本文
△明治參十七年度大谷派の豫算案を見るに、本山は海外開敎費の刪減に於て、朝鮮にては參別院一支院の外を閉鎖し、清國にては上海別院の外に於て四學堂參布敎所と一医院を全廃することゝせり、而して本山は敢へて海外布敎の全廃を唱へずして縮少を宣言せり、之れ恰も耳を覆ふて鈴を盗むに過ぎす、何んとなれば朝鮮の參別院一支院や清國の上海別院の如きは、敎場の所在地こそ海外なれ其布敎の目的物は常に在留邦人に限りて、清韓民にあらざるは従來方針の証明ある所なれば、本山は敎場の所在地が海外なるに藉りて、表面を糊塗すと雖も其實に至りては全然之を剥奪して今日の片影だも止む○を欲せざるに似たり、加之本山の方針か居留民に重を置くは敎場の維持經済を其地の門徒に求めるの便宜あるを以てなり、然れば今回提出せんとする豫算案中幸に閉鎖の厄を免るゝ處の四別院一支院の如きは全然本山の補助を離れて独立敎場となるや否やと云へば、豫案は唯従來に比して其幾分を減じたるのみ、之れ元來何等の定見ありて此標準を求めしを知らずと雖も、本山が年々刪減する豫算によりて敎場の維持に困難を感ずる愁声は、歳を更めて変せざれば四別院一支院にして果して此刪減額の下に維持を得るとすれば、他の閉鎖に撰ばれたる四學堂參布敎所一医院もまた宜しく他の參別院一支院と均霑の恩恵に浴すべきなり、若し此方法にして到底維持に難き時は、本山は宜敷國家の體面と一派の威信とに顧みて、其關係の薄き處を廃し以て其利害の深き處を存すべきなり、唯其目やすを居留民の若干と献金の多少に求めて、國家の體面も一派の威信をも省みざる如きは吾輩誠に大谷派の爲めに取らざるなり、且つ聞く所に大谷派本山は海外布敎改正係りを新任して目下彼地に渡航せしめ改正事項を實地に就て審査せしめつゝ有るにも關せず、未だ其報告を得るに至らずして、突然豫算案中に閉鎖をを強いるか如き、或が議制會に之を提出す可く明記し乍から、一回の討議にも附せず寧ろ之か發表の前に當りて其敎場に向つて閉鎖を通牒せるが如き、清韓在各敎場の開閉は従來我駐在官吏の手を經て清韓政府の承諾を求めたる後、開閉したるものが今回の閉鎖に限りて夫等の手順を怠りたるか如き者あるは、蓋し議論の生じ易すき行動たるを免れず、吾輩は此等の敢行を爲すは何等かの成算の他に潜む有るを信せんとすと雖も、若し此儘の進行を継續せば閉鎖實行の暁には、其障碍を意外より發見する既往の關係に照らして甚だ明了なる事情あり、之が是非を論ずるもの幸に慎重の考慮を費やす、本山の過失をして甚しきに至らしめざるに努力すべきなり。(愚軒)