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記事題目

「滿鮮竝支那布敎 西本願寺は?」

作者

雑誌名

『中外日報』

号数等

年月日

1918年7月4・5・6・7・9日

本文

△朝鮮開敎の先鞭 は西本願寺でなくて東本願寺である、過去の歴史を眺むれば東の方が多くのページを占めねばならぬが即今に於ては西の方が堅いへ地盤を築いて居りはせぬか?、此の疑問は東本願寺の消息を伝へる時まで筆者は読者と共に?の印にしておかう、西派の門徒の多い廣島、山口、福岡の諸県に近い朝鮮の内地人が殆んど八分通りまで達してゐる、京城に於ける真宗寺院の祖元たる東の南山本願寺も、寺總代は西派の檀信徒が大分加はつてゐた、李王家との密接な關係を結んだ當年の勅額たる「阿弥陀本願寺」一枚だけでは、此の南山の本願は永代盛大を誇るわけにはゆかぬ。(中略)
△總督府令に依る寺院 は全鮮で十四ケ寺だけ寺號を称してゐるのであるが、別院は京城に一つ、布敎所、出張所と名づくるものは參十四ある、敎會と名けて鮮人のみの團體が四つあつて漸次これも隆盛になりかけてゐる、以上の統計は昨年盡日、即ち今年一月作制のものに基いたもので、今年に入つてから開城と安東との二つの布敎所は殖えた。
△開敎使以下本山任命 の者は開敎使補まで入れて全部で五十八名ではあるが、附属してゐる役僧の數も決して少くはあるまい、これは右五十八名の外であることは勿論である、約六十名の開敎使が汗みどろになつて贏ち得たる檀信徒の數は如何、敎學課の統計はそもそも何を語る?
△信じられぬ統計 の一つとして宗敎家の信徒統計ほど馬鹿に信じられぬものはない、東寺大學の宗祖降誕會に、わざへ東京から入洛した澤柳博士が口を極めて真言宗の檀信徒の統計の不確實無二なることを罵られたが、豈に独り真言宗のみならんやで、恐らく何人が調査を命じ、また調査を命ぜられやうとも出來ることではあるまいとおもはれる、松原開敎々務所長も恐らく其の一事は首肯せずばなるまい、が、かくいつたゞけでは要領を得ない。
△敎務課の報告書綴 其他から課員の最も正確なる調査により承つたところよると、檀家の數が七萬に達し、その人口が二十四萬に及んでゐる、信徒と名くべきものが二十參萬である、鮮人信徒の數は五千八百に近い、これは近來に頓に殖えて來た浄土宗の鮮人信徒をも無論凌いでゐる、東本願寺は古い歴史を誇つても、五千八百の何割を得てゐるか心細い、注意すべきは此の西の信徒の幾割かは同一人間で東へ首を突き込んでゐるこのもある筈だから、全鮮各宗の信徒の數を合計したものが實際の人數とは大違のある事を知らねばならぬ
△朝鮮開敎の現状 は各宗共に内地人を抱き込む事に努力してゐるから、鮮人の方はお留守になりがちである、(中略)
△然るにだ 日本の僧侶はドウであつたたゞ、内地人の巾着を絞りて自己の鼻下建立にのみ腐心してゐた、西本願寺の開敎總監としては問題の人日野尊宝氏が龍山の小高きところに飛雲閣のやうな高い建物を立てゝ構へてゐた、それでも鮮人開敎の實は低いものであつた、京城別院にあつた井波潜彰氏が李王家との間をうまく關係づけてゐた、南山本願寺は總督府の門前だけに都合のよかつたこともあらう、龍山の軍隊には漢江を越して向ふの永登浦から西本の中々熱心な慰問開敎使が來てゐた、江華島にもやつて來た此人の名は不幸にして自分は忘れたが戦友に代りて禮状を度々送つたのことがある、餘談にわたつたが鮮人布敎は昔のまゝとまではゆかずとも僅かに各宗中心ある宗派だけが徐々に手をつけてゐるばかりである、仰々しく書き立てることは無い。
△監獄敎誨師 が僧侶の手に委托してある、西本から出てゐる専任の監獄敎誨師は目下九名ある、即ち京城に巌浄圓、參浦泰然あり、平壌に津村静、金州に流水最勝、大邱に轟鉄眼、桑原貫一、釜山に菅田了海、永登浦に佐々木鴻、清津に松木碩松あり、以上は専門の敎誨師であるが、開敎師にして敎誨師を兼ねたものもある、朝鮮の監獄で日本人のみを収容してゐるのは永登浦のが一つあるだけで他の監獄はいづれも鮮人と合宿の有様である、敎誨師たるものは鮮語を解してゐなくては物の用に立たぬ、そこで本山は此点に十分の注意をしてゐる、囚人の割合は申すまでもなく鮮人が多い。
△京城の巌敎誨師 の鮮語に堪能なることは定評で鮮人でさへも鮮人ではないかと間違へるぐらゐだといふことだ、かうあつてこそ鮮囚の敎誨が出來得るのだ、第二第參の巌をつくるべく毎月二十圓の手當を施して光岡良雄、小笠原秀昱の二秀才が留學生の名義の下に京城に在り、孜々として鮮語の熟達に努めてゐる、光岡氏は佐賀龍谷中學の出身、小笠原氏は今春佛敎大學を出た人である。

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