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記事題目

作者

雑誌名

『明敎新誌』

号数等

年月日

1891年9月28日

本文

同國釜山港の本邦寄留人民の人口八千餘人にて戸數八百餘に別れ一團欒を成し此内には外國人は一人もなく一都會を成せり一體の人氣は故郷遥かなる海外の居住なれば殊更神佛の加護を祈る傾きは人情の常なれども等しく崇敎の有様は感も堪たるなり神佛の類別は真宗大谷派の別院と神道勧請「玉垂社、住吉社、清正公」の會殿の外なし本宗の如きは去る明治十六年某氏の持家を其儘に説敎所となし此際なぞは領事館、警察署に於ても黙許しあり此建物則ち説敎所の建坪は八間に四間半餘の一棟にて畳はあれど建具の如きは整はず(中略)本月參日より開講の折は信徒僅かに廿餘名なりしも漸々參衆して今は數倍と成りたり其れに昨年コレラ蔓延の際死亡せし追弔施餓鬼を施行せんと企てたるに在任官吏も賛成せられたり然るに本宗の八十餘戸二百餘人の總代として浦田安五郎外四名の人々は左の如き別院設置の請願書を差出したり
別院設置請願
不肖浦田安五郎日宗信徒二百餘名を代表し謹で鄙見を陳じ旭日苗僧正殿下に奉請願候私共生活の爲め家族と共に朝鮮國に渡り釜山港に累年寄留開業罷在候生者必滅生不常の掟なれば信徒中又は信嚮の者往々死亡候とも釜山港は外人を不交内國寄留の人家八百餘戸有之候に真宗大谷派別院を除くの外寺院は勿論僧侶御名称御一名もなく尤も我等本宗の掟を確守し亡者をして他宗の寺庵に托するを欲せず然り止むなく自葬の式を擧るの外なし加ふるに銘々信徒二百有餘名の者共は佛日且つ忌日亡者の年回に相當するも信徒集合唱題の外なく業務の餘日には參世の道理維新の御政體如何の御敎諭も折々聴聞仕度と多年此事に痛心罷在候へども其素懐を遂げず嘆息の餘り夫れ道の人を化するに非ず人能く道を弘め人を化すの古言有りと聞にし故に本宗御録司肥前長崎本蓮寺の住職大講義貫名日達殿に依り殿下の御渡海を懇願候所殿下幸ひに我等が苦心進慮せし微衷を諒せられ御渡海被成下候段信徒一統の僥倖のみならず死亡者の幸福と奉恐悦候此際特別の御配意を以て真宗大谷派の如く釜山港に貴山の御別院御名称被成に長く釜山港居留内國人民の御敎導且つ葬儀追善萬般敎務の御主任被成下候はゞ我等信徒の幸栄のみに非ず一宗の名誉外國御布敎卒先第一着の道場とも可相成普天卒土大乗の法雨に潤ひ一天死四海皆歸妙法の旨主にも契ひ海外に恰かも宗威を輝し佛法西伝流布の端緒とも相成候事とも乍恐奉察上候何卒廣大の御慈憫を垂れ玉へ前條熱望の懇願御尊諾御採容被成下度茲に不敬不遜を犯し叩頭し二百餘名信徒の惣代として聯署を要し伏て奉請願候也
明治廿四年    朝鮮國釜山港寄留
 九月十二日   日蓮宗二百餘名信徒總代
浦田安郎、村井市左右門、平井順吉、多田清之助、天本佐兵衛(印)
本山妙覺寺御住職權僧正旭日苗殿
之より以前明治十六年頃は信徒も多く亦種々の御方も御渡韓御布敎もあれども兎角勧財其他の醜談にて終には信徒も避けるの勢ひに立至るも今は萬枯に花を開かしむるの心持すなぞ物語りぬ(以下略)

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