top of page
植民地朝鮮の日本人宗教者
記事題目
「京城佛敎管見」
作者
黒雨白鳳仙人(投)
雑誌名
『中外日報』
号数等
年月日
1909年6月3日
本文
我輩は日本から來たばかりのほやへだ京城の佛敎と云ふて日本僧侶がやつてをるだけを云ふのだ、まづ東本願寺はたしたものだ、全く本堂式の本堂で十間四面である、輪番は井波某と云ふ男で當時は葬式や法事に重きを置てをる、參十年位の歴史を以てをるだけに葬式や法事の數は多いとの事だ、但し此れは日本人の方面で韓人布敎は振はない方だと見うけた、日本人布敎にも熱心するがどうかは知らぬ、寺の世話婆やなにかにあつても真の信者がないためだ、此の本願寺内に滿韓布敎監督部と云ふのがあつて龍山法學士が一寸來て新任披露をして直ぐ歸京した、次が順序だから西本願寺、あはれな家だ、西洋風の木造の二階建で、聞けば七十圓も家賃を出してをると云ふ、入口(門はない)に本願寺出張所と云ふ札と大聖敎會と云ふ札が掛けてある、道を求むる日韓人は東本願寺以上だと云ふ、毎月曜の説敎と未信心者伝道、既信者愛樂會婦人會などがあると云ふ、説敎のときまいつたら一向平民的な岩尾(巌の誤記カ)某と云ふ男がいた、韓語も出來るとのことで氣永に構へて信者が出來たら本堂も出來ると云ふてをるそうな、
bottom of page