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記事題目

「佛敎大會彙報」

作者

雑誌名

『朝鮮佛敎』

号数等

8

年月日

1924年11月

本文

財團法人朝鮮佛敎大會創設經過
朝鮮佛敎大會の要務を帶び東上中なりし小林源六、李元鍚、中村健太郎の參理事は十一月下旬歸城したるが、東京に於ける今回の運動に付き參理事は交々語る。
朝鮮佛敎大會は過去四箇年間の經験に依り有爲の青年を養成して布敎師たらしめ漸次敎線を全鮮に及ぼすべく今年春期の總會に於て其の方針を確立するに至りました。然るに之が實行には内地に於ける各宗本山との聯絡が最も必要ですので、常務の李元鍚氏が今春以來内地に渡り、
各本山の管長 を歴訪して賛同を求めましたが、幸に何れも熱烈なる賛意を表せらるゝに至りました。それで李常務は更に内閣諸公及び貴族院議長徳川家達公、宮内省宗秩寮總裁、徳川頼倫侯加藤高明子、清浦圭吾子、澁澤栄一子其他朝鮮の諸名士にも賛成を求め、何れも熱心に賛成の意を表されました。就中下村文部省宗敎局長は尤も烈熱なる賛成者の御一人で重々親切に盡力して居られます。また日本佛敎聯合會、佛敎護國團等も争つて至誠一致の賛意を表せられました。それと同時に徳川家達公、清浦圭吾子、澁澤栄一子及下岡政務總監は顧問たることを承諾せられました。斯ふなりますと本會も財團に組織を変更して永遠に事業を継續するの必要が起りました。それで今年の八月李元鍚君を東京に派遣して
財團法人組織 のことを本會の顧問たる徳川公、清浦子、澁澤子に圖りましたが參顧問も直ちに同意せられ財界のことは澁澤栄一子爵が専ら盡力せらるゝことゝなりました。澁澤子爵は之を東京に於ける有力なる實業家に圖り澁澤子と野中鮮銀總裁と宮尾東拓總裁の參方が實行委員となつて下さいました。其内に下岡政務總裁も御上京になり此れ程迄に進めて戴いたのを李常務一人に委せて置くべきものでないと考へ且つ又敎務の中心的人物を得る必要もありますので常任理事中村健太郎氏と共に十月十參日東上したやうなことであります。澁澤子爵も、下村宗敎局長も、總督府の古橋事務官も吾々の東上を非常に待つて居られた模様でありました。私も最初から李常務に申しましたが
此事業が只金 ばかりで出來るものではない。金も勿論必要であるがそれは御心の込つたものを頂戴したい。それて廣く寄附金を募集するやうなことはせず先づ澁澤子爵に御すがりして東京の有力者中の幾方からか少し纏つた御金を戴くやうにと堅く申したのであります。國家社會の事とは云へ八十有五歳の子爵が親ら此事のために御盡力下さるのを見ると只た感激の外何もありません。御蔭で參箇年に約六萬圓ばかりの援助をして戴くことにありました。是れは前に申し上げました通り全く御心の込つた御金でありまして私共は金の多寡よりも御心を戴いたことが何よりも喜ばしうございます。随つて私共も一大決心を以て此事に當らねばありません。下村修局長が熱心に御盡力に成つてゐます。
岡田文部大臣 からも朝鮮千七百萬同胞のために出來るだけの盡力をするやう御注意があつたと申されて居られますけれども各宗代表者なども今度宗敎局長のやうに熱心な御方は宗敎局初まつて以來ないといふ位全く自分の事業か何かのやうに公務多端の中を時間を割いて何から何まで相手に成つて戴くのであります。私共は今度の計畫に就て別項記載の如き實行案を提出しましたが之に就て宗敎局長は各宗の代表者を文部省に集めて相談をして下さいました。其の結果各宗派管長十二參名を顧問に御頼し尚ほ朝鮮の本部に常任して敎務の方面を擔當する敎界の權威者を一人推薦して戴くことになりました。多分京都の清水寺と奈良の興福寺の法主である前の法相宗管長大西大僧正に決定するだらうと思ひます。
佛敎の復興と いふことは中々大問題で斯道の學者の指導を仰ぐ必要がありますので此事に就き色々御相談を致しましたが斯界の權威者である文學博士澤柳政太郎氏と文學博士高楠順二郎氏の後二方が顧問足ることを承諾せられました。それからまた此の計畫を進行するには中央政府と總督府から色々御指圖を仰がねばならぬのでありますがそれに就て文部大臣の岡田良平氏が顧問を承諾せられました。以上の如く各方面の多大な御賛同を得ましたので益々財團法人の出願をしたいと思います。本會の運動が斯うの如く頗る順調に進行しましたのは斎藤總督閣下と下岡政務總監閣下の御同情と御盡力の致す所でありまして之に就ては
只だ感激の外 はありません。來年の新學期には仮令幾人にしても留學生を送りたいと思いますが人選は銓衡委員の手を經ることにしたいと思います。然し留學生の卒業して布敎師になるのは參四年の後のことであるからそれまでは適當な人物を撰んで布敎師にしやうと考へて居ります。云々

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