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記事題目

「全鮮に網をはる基督敎と みじめな佛敎の現勢(朝鮮地方視察記(四)」

作者

藤波大圓

雑誌名

『真宗』

号数等

310

年月日

1927年8月

本文

老衰に近づくか佛敎の現勢
然らば佛敎はどうであるか、先づ現在の朝鮮に活動する内地佛敎は十七宗派を算へることが出來る。これらの布敎所竝に寺院と称せらるゝもの總計參一七、布敎者參九〇、信徒十七五、九四一、内鮮人は僅かに一八、八九參の一割にすぎない内地佛敎は内地人を主に信徒とするから布敎者は鮮人と交はらなくとも、亦搾れるだけしぼつて懐が温かくなつた頃に本山から役級でもあげてもらつて、おさらばをきめたらよいかもしれないが、時代と使命は布敎者にそんなことを要求してゐない筈。内地佛敎のうち最も盛んなのは真宗本願寺派の布敎所寺院七〇、布敎者一〇八、信徒六二、五七五、内、内地人六一、參九七鮮人一、一七八に、次で大谷派の布敎所寺院四六布敎者六〇信徒參六、二〇一、内、内地人參一、二二九、鮮人四、九七二であるが、真言宗各派、曹洞宗などは布敎所、布敎者等は大谷派に勝るとも劣らない。
舊態を脱し得ない熱と統一がほしい
内地佛敎布敎者の布敎方法は一口に云へば信徒の争奪と読經である。内地に於ける宗派を調べて「君は西の門徒だから僕のところへ」「君は東の門徒だから僕のところへ」と云つた調子である。ゆへにむしろ朝鮮開敎所とか布敎所とか云ふよりも西本願寺或は東本願寺出張所と云つた方が正直でよい。然しながらそらは云ふものゝ殖民地の開敎程骨のおれるものはない。内地で伝統的に御院主様を氣取つてゐるのとはちがつて、血の出るやうな思ひに泣くことはしばへであらう。それにいづれの宗派も布敎者に支給する物資はお話にならない程の貧弱さである、然も月々の支給がおくれ勝である、勢ひ彼等布敎者はその日から自給自足も同様と云つてよい。その中から貧困と戦ひつゝも、いろんな社會事業(次回に紹介)に手も出してゐるのであるが、ともかく基督敎の布敎者が飢えたる者にぐんへ恵んで神の愛をとくのとは雲泥の差である。だから多くの者は目鼻がつくまでにたをれてしまふことはすくなくない。目鼻がついても本山は一向かまつてくれない、折角のものも放擲しなければならないといふ實例も尠くない。
読經と座談を主に生活改善へ
内地から觀察して朝鮮の佛敎を見た人は多く「お經ばかり読んでゐて一向布敎らしい布敎を布敎をしてゐない」とふ。然し考へねばならぬことは、一時間二時間に亘る長口舌よりも、丁寧に拝読する一巻の『阿弥陀經』の方が信徒の心をより多くひきつける普通性があるといふことである。私は朝鮮の布敎は内地人に向つては読經と座談に主力をそゝぐべきであり、鮮人に向つては生活改善を主張すべきであることを痛感した。(中略)
更に鮮人への布敎は佛敎徒が一丸となつて彼等の爲に日常生活の改善運動を起すべしである、同一の敎を信奉する者が小天地に宗派的争の絶間のない處にすべからかく反省の眼を開くなれば必ずそこには協力の世界が生れて來るであらう。それについての具體的方法は今私案をこゝに述べるべき場合でないから、差し控える。が今鮮人に向つて佛のありがたさを説き念佛の功徳を説いてみたところでそれは糠に釘である。それを信じることの出來ない鮮人よりもそれを説く方がこの場合遙かに愚であると云はねばならぬ。現在彼等の向つてはその衣食住、衛生状態の上に改善を行はしめ或は勤勞の意義と尊さを説く等實際に指導することが緊要なことである。
佛敎は基督敎の一割 みぢめな有様
上來佛敎と基督敎の現勢及その布敎方法に就て一瞥して來たのであるが。何としても佛敎は基督敎に及ばざること實に遠いと云ふだけでない。
全鮮に於ける布敎所と云はるばきもの(總督府に登録済みのもの)に於て大正十二年の調査によれば前述の如く基督敎參、六五八、内地佛敎全體で寺院を加へて參一七即ち基督敎の十分の一である。これを朝鮮の面積一四、參一二方里に比例すると約四方里に基督敎は一つの布敎所をもち、佛敎は四五、一方里餘に一つの布敎所をもつ割合である。四十五方里に一ヶ所の布敎所をもつだけで如何に參百の布敎者がかけづり廻つたところで及ぶことではない。だから内地佛敎の信徒として數字の現はれてゐるものが一五七〇四八、現在朝鮮に在住する内地人の約參分一に過ぎないのも蓋し止むを得んことである。どうだこう數字をならべて比較して見ると如何に海外布敎と云ふことを考へてみない者でも憤慨するだらう、憤慨してみた處で今更どうも仕様がない過去の事情はとりかへすことが出來ない。今迄惰眠をむさぼつた報ひである。かういふ状態であつてさて全鮮の佛敎の内部を通觀するに、今や何處にも新興の意氣のひらめきがない、或は之を求めるのが間違つてゐるのかもしないが、殿堂は腐れゆくに任し、布敎者は本山の不平を云ひ身の薄幸をかこつ者が多い。
各宗は國家の保証を要求せよ
本山側に云はせつと「やらないからだ」「活動しないからだ」とすぐ云ふであらう布敎者だとて社會生活する一人である以上一般社會人に必要なものはすべてむしろより以上に必要である。本人は勿論妻子眷属に対する生活の保証も必要である。自己の属する團體に(宗團に)必要な名誉も地位もより以上にほしい由來海外開敎の任にあるものは多くかゝる点に於て内地に働く者よりも恵まれてゐない。従つて自然布敎者の素質も悪くなる状態である。この重大なる一つの原因はいづれの宗派も佛敎に於ては内部的に有機的な統一を欠くによるものである。
この現象は實に以ての外である。彼等海外開敎の當事者は海外にある同胞を慰撫する一面に於て國家自體の海外發展にどれだけ力づけてゐるかしれないのである。形の上には利權の獲得などゝ云ふ風にしめしてはゐないが、彼等の存在には大きな意義がふくまれてゐる、だから海外開敎に従事する者は監獄敎誨に従事する者と同様國家がその地位と生活の一部を保障してもよいのである。敢て佛敎各派當事者に之を要求する意志ある者ありやと云ひたいのである。

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