植民地朝鮮の日本人宗教者
記事題目
「加藤文敎師の消息」
作者
雑誌名
『明敎新誌』
号数等
年月日
1892年11月2日
本文
朝鮮國釜山日蓮宗妙覺寺別院駐在の布敎師加藤文敎氏より去月二十四日付を以て社員の許へ送り越されたる書面中に左の一節あり日本佛敎の宗家たる朝鮮佛敎の現状を知るに餘りあれば録して我が佛敎徒中の多血漢に示す。
陳者小生義本月八日發足にて内地漫遊の途に上り東莱金海馬山浦厨山等を經一昨日歸院仕候前便に申上置候う處の朝鮮佛敎挽回の一條に付其第一着の手段として韓僧敎育の實施を試みんと欲し去十八日梵魚寺に到り寺主義龍大師已下參百餘名の僧徒を會合し小生が朝鮮佛敎に対する意見及び外敎徒布敎の目的等を懇々演説致し百方協議を凝らし候得共彼等韓僧原の畢生の目的は只自行に止りて絶へて化他の大願なく皆云ふ我等は經を誦し戒を持ち罪を滅し來世の得脱を祈るものにして如何なる邪敎の侵入あるも我等の關する所にあらず若し國に害あるもの官ありて之を防ぐと其冷淡此の如くなれば目下欧米各國の宣敎師等は孰れも本國政府又は本國敎會の保護金を受けて盛に學校を興し病院を設け貧民を救助する等百方有形上の手段を施し因て以て自敎の宣伝に力を盡し居るを以て目前の小利に心魂を蕩かすの韓民共争でか欧米宣敎師等の術中に陥らざん后來らば其れ蘇せんの勢を以て到る處迎へて之を信ぜらるはなく今は早七萬有餘の信徒を得るに至り此より進みて一大運動を爲さんとて彼れ欧米の宣敎師共は日夜苦心計畫を爲し居る有様に立至り申候然るに數萬の韓僧等は之に対して折衝禦侮の術を講ずるものなく一千有餘載の古佛敎國空しく邪敎の蠶食に供して顧みず適ま小生の佛敎挽回の法を議するあれば以て異邦人のいらざる世話と爲して酒蛙々々として云ふ害あれば官之を防ぐ何ぞ我等の事に關からんやと亦是非もなき次第に御座候抑も梵魚寺と云へば慶尚、忠清の二道の大本山にして寺内には七房九庵あり僧徒の卓錫するもの參百有餘あれども多くは生活に苦む貧民等の髪を剃りて佛門に投じたるものなれば經典を研究するものとては少く概ね農業に従事し又は信施を受けて僅かに口を糊する次第なれば學林を設立して僧徒を敎育せんにも資金を投ずる程の有力者もなく加之其大體に於て經典を研究して心地を明きらむるの邪敎を斥けて正法を維持するのなど云ふ志は露塵ほどもあらざれば韓僧敎育のことは實に至難の事業に御座候然れども日本佛敎の宗家たる朝鮮にして佛敎の衰頽僧徒の懶惰此の如きを觀て之を不問に付するは常に義氣ありと称して自から誇る所の日本僧徒に取りて實にあるまじき振舞に有之小生の誠に忍びざる所に候就ては朝鮮に在る所の欧米宣敎師等は孰れも本國政府又は本國敎會より莫大の保護金を受け金にあかして弘敎致居る有様なれば之と中原の鹿を争はんには日本佛敎徒に於ても亦相當の資金を要せざるべからず就ては小生朝鮮開敎竝に韓僧敎育の事業に關しては豫め必成の方法を設け日本佛敎當路の諸師に建白する所ある覺悟に候得共敎務鞅掌不得閑不日機を待ちて決行する覺悟に候何分中宵月沈み風死するの處考へ來り考へ去れば感極まりて泣伏すこと有之御推察可被下候云々