植民地朝鮮の日本人宗教者
記事題目
「吊故鄭昌朝君」
作者
小白頭陀 安鍚淵
雑誌名
『朝鮮佛敎』
号数等
26
年月日
1926年4月10日
本文
嗟哉、鄭君よ、君と余の初めて知り合つたのは今より約一ヶ年前であつた。京と郷に隔てゝ居り、就業は、僧と俗に分岐してあるが然し、茶綠相投じ、心相契するをや、豈早晩があらうか!
嗟哉!鄭君よ、吾等の知合いを物語ればこうである。大正十四年八月下旬に朝鮮佛教團主催の第一回の日本見學團を派遣するに予も其の一員として参加して、同二十日下午十時京城驛を出發する際、君は佛教社記者として同行された。
嗟哉!鄭君よ、君は記者の責任として一行の視察記を稿し、吾等の見聞を代辨して下れた。予も略干の日記を佛教に寄せられたが、然し見學の日割が二週間も足らない、僅か十二日間の短期であつたので、ほんの走馬看山格の視察に過ぎなかつた。各地に於ける筆記の材料は無量無邊ではあつたけれども、査然として其の萬一も模寫する事が能きなかつた。
嗟哉!鄭君よ、見學の一日京都の金閣寺、仁和寺等を拝観して、智恩院から清水寺に歸る途中、君は斯る御話をしかけた
鄭「安兄、今般見學にあなたの第一感想は何んですか」、
「え!不可説不可説であります、唯、未曾有を歎ずるのみであつて、何と枚擧することが出来ません。」
鄭「私は斯ういふ感があります。人事に對しては別に異域の感がありません。京城本町附近を歩いてゐる様な感じがします――然し、古物保存と、事業施設等は喫驚せずには居られません。安兄は、佛教に素養があり、私は時代に少し進んでゐるから、今般の見學を二人の批判を総合して書いたら、立派な記事になるでしょう。………私は鄭君の御意見に大賛成して「はい、そう致しましょう」と直ぐ快諾した。
嗟哉!鄭君よ、一行が奈良興福寺を拝見し、春日神社の入口を踏入つた。境内の老檜蒼松は左右に聳立し、石燈石碑は兩側に並び建でられた。一歩一歩一所に到着するや、長廣數尺餘の石槽上に、鐵龍が飛騰する如く奇妙に鋳造されてある其の龍の口からは一道の泉流が●湲に瀉出し、又山鹿數十頭が飼料(一行が鹿菓一對つゝ持有した)を望んで前後に追逐する、斯ゝる滿景を見て軽々過ぎ去るのは惜しいことだと言つて、約十分間の休憩することにしたが、丁度写真屋さんが来て居るのを奇遇として、一同は揃つて記念写真を撮影した。そしてまた各自まちまち撮影し始めるに鄭君は、自分の洋服を脱いで私に着せて、洋服姿をして撮影する様にとすゝめたので、私は欣然として、洋服を着かえることにした。鄭君の潑したる其の気象と姿態は、今も尚瞭然として頭に浮かんでゐる。
嗟哉!鄭君よ、見學を了へて歸城してからも、頻りに相會ふ機會を得なかつたのは、誠に遺憾であつた。然し前日に莫逆に許心してゐた交諠は、全恃して居るのである。私は次の如き期待をもつて、鄭君の活動を祈って居たのである。
朝鮮佛教團が組織され佛教雑誌が發刊さるゝや、随つて半島宗教界は無限光明を曹放するだろうと想像し、随喜に堪えなかつた。然し朝鮮佛教雑誌は餘り好感を與へられなかつたと云ふのは、個人の愚見でもあろうが、「朝鮮佛教」と題し朝鮮佛教の復興を唱えながら、而も朝鮮の僧侶とは、提携せず、握手を欲しても居ない。又は朝鮮人を本位とせずして、投稿や購讀方までも日本を土臺としてゐる。否此點に就いては、鮮人は因襲的暗味で、雑誌の緊重なる事を知らないから自發的に金を出して購讀しないのが原因であらう?
然し朝鮮佛教雑誌が營利的でなく、教化的であり、日本より朝鮮、支那、印度を報本逆化せしめんとする意思ならば、無限の心力冒険と、無限の經済損害を受けなければ、出来ないのである。此等本懐を顧みずして、唯日本の便宜を取るとするならば、此れ所謂「擔水賣江邊」である。肩人の掩目は寝て醒めても同様ではないか、釋迦世尊が十萬浄土を選擇して出現せずして、唯剛強難化した五濁悪世に誕降されたのはかの無縁大悲が急難衆生を先度し給ふからである。されば左記の簡端なる恒規を先定しなけれはならぬと思う。
一、歴史に明瞭であり、教理に燗熟した鮮僧一二人を選抜して操觚界に從事せしめる事。
一、投稿と講讀は可成的鮮人本位にすること等である。