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記事題目

「四十周年記念を迎える 曹洞の朝鮮開敎 範之和尚の渡韓から 現在に至る開敎の回顧」

作者

雑誌名

『中外日報』

号数等

年月日

1931年6月7日

本文

曹洞宗朝鮮布敎管理部では、今年十月の頃を期して、北野管長を迎えて開敎四十周年の記念法要を営み、併せて種々の記念事業をも行ふべく、既に早く昨年末之れが計畫を樹てゝ準備をなしつゝあり、宗務當局竝に開敎當事者間に在つても、この記念法要をエポツクとして、過去の開敎政策?を清算し、新開敎方針を樹立せんとするの意識を有するものゝ如く、その具體化は各方面の注視の的となつてゐる。果して然らば、曹洞の朝鮮開敎以來四十年間の歩みは如何なるものであつたか。この方面に關して古い資料を蒐集して調査を進めつゝある宗務の村上道隆氏に就てきく事とする。
漠然とした開敎起源 事實は之より古い 開敎四十周年の記念法要を営むと云ふのであるが、この四十周年と云ふことは頗る漠然たるものであるやうだ。開敎當時者は恐らく明治二十參年に武田範之和尚が渡韓した時を以つて開敎起源としてゐるやうであるが、然し範之和尚は當時決して布敎のために渡韓したものでなく、和尚は一箇の志士として國事に奔走したもので、渡韓の目的も亦、自ら別であつた。曹洞宗が始めて韓國に布敎師を駐在せしめたのは明治參十七年四月であるから、この年から換算すれば本年で二十九年と云ふことになり、更に正式に布敎管理を置いたのが明治四十年二月であるから、之れを紀元とすれば、その歴史はもつと新らしいことにならう。然し乍ら、武田範之和尚のみならず、宗門僧侶にして個人として渡韓、布敎に従事した者は、かなり古い以前からあつたやうであるから、事實上に於いては、曹洞の朝鮮開敎は四十年若しくは夫れ以上になると云つて差支えない。
朝鮮開敎の草分け 幣原喜十郎の反対 朝鮮で一番最初に曹洞の寺院が建立されたのは、釜山の總泉寺で、朝鮮開敎の草分けと云つた形である。釜山の總泉寺は明治參十四五年頃、東京橋場の總泉寺住職木下吟龍氏を盟主に、渡邊洞水氏、大石觀法氏其他東京の有志寺院の發起で曹洞宗私立海外布敎會なるものを創設し、各自資財を拠立し又は頼母子講等で基金を作り、その金で静岡県人村松良寛氏を釜山に派遣して開敎せしめたのが抑々の始まりであつた。村松良寛氏は釜山へ上陸後、直ちに布敎所の設立を計畫したけれども、當時の釜山領事幣原喜十郎が之れに反対し容易に許可しなかつたので「俗吏宗敎を解せず」と憤慨した書面を知友に送つたことがあり種々な困難に遭遇し乍ら、能く不撓不屈の精神を以て、開敎に従事したゝめ、信徒も日に增加し、遂に明治參十七年四月には宗務當局も之を認め、村松氏を正式に韓國駐在布敎師に任命したのである。が不幸同年九月に疾病に罹り最初の殉敎者として遷化した、宗務では直ちに後任として長田觀禅氏を任命、同氏の努力に依り、翌參十八年十二月には一寺を建立成就した。これ現在の總泉寺の前身である、宗務では當時宗門僧侶の渡韓開敎を志す者頗る多きに鑑み、明治四十年二月、長田觀禅氏を布敎管理に任命し、之が取締りを命ずると共に、各布敎の聯絡を執らしめたのである。
武田範之和尚 志士と交り帷幄に參ず 曹洞の朝鮮開敎史中、最も異彩を放つものは、武田範之和尚の活躍である。和尚は現總務祥雲晩成氏の師匠に當る人で、久留米の産、歳二十參にして越後の顯聖寺住職玄道和尚に招かれて衆僧のために授業し遂に剃髪して僧となつた。明治二十參年渡韓し玄洋社の同志と共に天祐敎團を組織して各地に出没して事を謀り東學党の乱起るや、嫌疑を受けて二十七年の○日本に送還され、翌二十八年參浦將軍韓國公使となつて入城したが、閔妃事件に坐して廣島の獄に送られ翌年免されて越後に歸り寺門の經営に當つた。明治參十九年黒龍會主幹内田良平氏の統営府嘱託として伊藤統監に従つて渡韓するに當り懇ろに和尚を招いたので、欣然として之れに參じて參度入韓した即ち渡韓後は韓國の志士と親交を結び裏面帷幄の人として縦横に活躍を逞うし、日韓合邦への朝鮮側の與論を最もよく導いたのであつて、其の功績は甚大であるけれども、和尚は身緇素にあるの故を以て表面外部に立たなかつた爲に、和尚の功績を知る者は極めて僅少である。斯くて國事に奔走する傍ら東學党の残党李容九の率ゆる侍天敎の顧問となり、又當時韓國に於ける唯一の政党たる一進會の師賓となり、更に朝鮮佛敎圓宗總顧問となつて、政敎両面に亘つて活躍したが、明治四十一年には曹洞宗朝鮮布敎監理の任命を受け専ら、宗風の擧揚に努めた。明治四十參年十月、日韓合邦の事成るや、一切の公職を辞して漂然歸國し、翌四十四年六月東京根岸養生院に於て病歿した。享年四十九歳。京城龍山の瑞龍寺は和尚の開創に係るものである。
朝鮮佛敎との提携 北野管長の布敎總監 日韓合邦の前後即ち、日露戦役の直後より日本人にて渡韓する者頗る多く、合邦當時は日に參百名位宛の渡航者があつたといふことであつた。従つて各宗亦競じて朝鮮開敎に手を着け、各宗間に在つて花々しい開敎戦の展開を見たのもこの時であつた各宗共に朝鮮開敎費として莫大なる豫算を計上し、同時に一流の人物を送つて開敎の第一線に立たしめるに至つた。曹洞では武田範之和尚の引退後、田中道圓氏を暫らく布敎管理に任命したが幾何もなくして之れを解任し、宗門としては一流の大家である北野元峰氏を懇請して、朝鮮布敎總監に、寺田有全氏を随行布敎師として、京城に駐在せしめた。これ朝鮮開敎としては畫期的の壮擧であつた。北野元峰氏入城するや、統営府の官吏を始め貴顯紳商競ふて參集し聞法するの有様で、曹洞の禅風八道を風靡するの慨があつた。この時代、独り表面に布敎をなすのみならず、各宗亦競ふて在來の朝鮮佛敎を誘導し啓發せんとするの機運濃厚であつて、朝鮮側寺院と提携せんとするの運動は頗る熾烈を極めたものである。之れより先、明治四十年の頃、慶尚南道海印寺住持李晦光氏は朝鮮全道の寺院を統治せんとし、京城東大門外に圓宗々務院を設立し、武田範之和尚を總顧問に推擧して之れが成功に盡力を乞ふところあつたが、明治四十參年日韓合邦なるや、李晦光氏は範之和尚に請ふて朝鮮佛敎と曹洞宗の締盟せんことを提案し、遂ひに同年九月李晦光氏は朝鮮僧侶を代表して上京し、曹洞宗務院に總務弘津説參、尚署織田雪厳の両氏を請ふて、両者締盟の陳情をなし盡力方を懇請したので、宗務では朝鮮寺院の統一を急務となし、取敢へず圓宗々務院の確立を希望し、之れが援助のために若生國栄氏を派遣することにし、圓宗々務院の統制成るを俟つて締盟せんとの意圖を有してゐた。即ち宗務では明治四十四年一月に若生氏を參ヶ月の豫定で渡鮮入城せしめ、種々斡旋せしむるところあつたが、他宗派僧侶の嫉視防害するあり鮮人朴漢映等が京城毎日申報に反対論を称へたりして、遂ひに之れは畫餅に歸してしまつたのであるが、之の裏面史にはかなり面白い材料が澤山あるのである。
所謂十人組のこと 開敎の基礎斯くて成る 北野元峰氏が布敎總監として京城に乗り込むに際し、鮮地開敎者養成の目的を以て曹洞宗大學林の秀才十名を選抜して京城に聯行し、鮮人家屋を賃して之れに居らしめ一ヶ年間朝鮮語の習得をなさしめて之れを各地に派遣して大いに鮮人布敎に方らしめんとするの計畫を樹てた今でも之れを十人組と呼んでゐるが、その光栄なる選抜を受けたのは
多羅尾道賢、中野啄乗、北畑泰栄、河村祚玄、宮部悦厳、光英勇猛、長岡○○、牧野秀○、○○玄○、永井○雄
以上の十人で、全相淑なる者を頼んで鮮語の學習を受けること一ヶ年にして木浦、普州、全州、鉄原、會寧、開城、公州、平壌、鎮南浦、清州等へ夫れべ錫杖一本を手頼りに開敎の旅に上つたが、何れも刻苦精進して開敎の基礎たる寺院布敎所の建設を完成し、之れより朝鮮各地に曹洞の寺院布敎所は次々に現出するやうになつた。
現代管理の素描 五十嵐氏の功績 布敎管理としてどんな人々が就任したかと云ふに、第一世は村松良寛氏の跡を承けて釜山の總泉寺を完成した長田觀禅氏で、この人は台湾にも五六ヶ寺位寺院を開創した人で開敎者としての功勞の多い人である。次が武田範之和尚で、京城に布敎管理部を設置した最初の人である。範之和尚の後任は田中道圓氏で在任期間は二ヶ年位であつたが京城の別院を若草町の今の両本山布敎所の地点に創立した人で管理辞任後は郷里松山に歸つてゐたが先年物故した。次が北野元峰氏で、現在の永平寺貫首その人である。北野禅師の後任に杉本道山氏が赴任せられたが、杉本氏も後に名刹相州小田原の最乗寺に住職し次で總持寺の西堂となり、遂に總持寺貫首となつた。北野、杉本の両禅師を出したことは朝鮮敎界の自慢の一つになつてゐる。次が中村甎宗氏であ現在の名古屋の善篤寺の御前様である。その次が五十嵐絶聖氏であるが、五十嵐氏は大正十年から昭和二年迄前後七ヶ年在任して、歴代管理中最も長く就任したゞけに、この人の遺つた仕事も頗る多く、多年の懸案であつた京城大和町の曹谿寺を大陸大定より買収して、之れに別院を移転し本堂、庫裡、山門等の素晴らしいものを建築し、且つ在任中に各地に建設した布敎所もかなりな數に上つてゐる筈で、曹洞の朝鮮開敎の基礎も同氏に至つて全く成つたと云ふべきであらう。昭和二年九月五十嵐氏勇退の跡を襲ふた現管理高階瓏仙氏は曹洞宗大學林敎校宗會議員等を多年勤めて學徳兼備の人で、遠州可睡斎の後董に擬せられてゐる人である。この人の手に依つて曹洞の朝鮮開敎は第二期の新らしいスタートを踏み出そうとしてゐる訳である
現に布敎しつつある人々 現在朝鮮における曹洞の寺院布敎所は約六十箇所で、布敎師は百人前後位居る筈である。京城に布敎管理部があつて全鮮の寺院布敎所の元締め役をなし、高階瓏仙氏が管理として採配を振つてゐるわけである。在鮮約百人の布敎師の中から頭株の聯中を一瞥してみると、平壌に東海林道賢氏が、鎮南浦に木材雲外氏、開城に川合俊良氏が居り何れも多年任地に在つて地方の徳望を一身に集めて居り、京畿地方には仁川の磯部徳全氏、水原に大西建參氏よく活躍し、北鮮に元山の仁生廓仙氏、咸興の玉井廣觀氏、會寧の牧野秀孝氏等も随分古い布敎師だけに開敎の實蹟は頗る擧つてゐるやうだ。(以下略)

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