植民地朝鮮の日本人宗教者
記事題目
「日宗朝鮮布敎の先駆△澁谷新布敎司監」
作者
雑誌名
『中外日報』
号数等
年月日
1918年10月29日
本文
今回日蓮宗布敎司監に任命され近く京城へ赴任の新潟市西掘本覺寺住職澁谷文英氏は宗會の古參議員の論客として宗内に知らるゝが氏は前總監佐野前励氏が○に在りし朝鮮開敎の覇氣滿々たりし當時佐野氏の肱股として同志と共に朝鮮に赴きしは今より二十參年前即ち明治二十九年世は日清戦争終りて我國の威武鶏林八道を風靡せし頃にして佐野氏等の同志と共に朝鮮僧侶を京城内に入れしめざる李朝五百年間の國禁を解き鮮僧の卑屈心を啓發するは日鮮佛敎提携の第一歩なりとし朝鮮皇室に向つて運動し遂に目的を達して鮮僧をして京城出入の自由を得せしめ之を記念すべく韓國皇帝の爲に國祷會を修する等奔走大に勗めしが王妃暗殺事件勃發するや窃に聯累を保つ者にあらずやとの嫌疑を受けしと且つ當時は日蓮宗に於ける爲宗、本山同盟の紛乱の餘焔去らず佐野氏一派は關東を中堅とし本山の勢力に拠れる宗務院側よりは宗門の危険人物を以て目せられ宗内の反対者より朝鮮に於ける活動を妨害せられし結果、頓挫の止む無きに至れり、宗内政争の犠牲に供せられし一例としては佐野氏等の同志が當時の管長たりし小林日董僧正の代理として韓國皇室へ奉献品目録中法華經、立正安國論及び金香炉と欺瞞せるものなりと吹聴したるが如き又た小林管長が一行に代理を託したるを宗務院を經由せざりし故を以て詐称せるものなりと否認する等内外の障害頻出した爲め朝鮮に対する計畫を一時斷念せざるを得ざりし由なるが右の韓國皇室への奉献に対する答禮として香炉一基、細簾四掛、虎皮一枚とを下賜せられ宮内大臣李載冕より鄭重なる宣示を贈られたりと、爾來二十參年の星霜中に日韓併合をも見、當時一行の棟梁たりし佐野前励氏逝き宗内に於ける本山対末寺の政争も漸次緩和せられ宗會の一院制を實現せる、今回水滸伝中の人物を彷彿せしむる當年の澁谷文英氏が朝鮮日宗の布敎司監となれるは氏も今昔の感に堪えざるべしと同志の一人は語り居れり