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植民地朝鮮の日本人宗教者
記事題目
「旭日苗僧正」
作者
雑誌名
『日宗新報』
号数等
419
年月日
1892年2月15日
本文
旭日苗僧正が朝鮮釜山に妙覺寺別院を設立せられし縡は度々報道せる如くなるが今回同僧正の近信を得たれば重複を厭はず左に其一端を掲げぬ読者諸君前號朝鮮釜山妙覺寺別院と題する項と対照して事實のある所を知りたまへ前略貴社新報四百十五號雑報欄内に昨年野衲が朝鮮渡航随行員加藤文敎より野衲在留二週間にして歸朝佛祖の本像を送る依て内外完備信徒滿足云々とあれど是れ大なる誤なり野衲は昨年八月四日朝鮮釜山着信徒の申すに去明治十六年より説敎所なり内地御本山の別院なり公称の志願依て信徒浦田安五郎なる者東上して前管長參村殿下へ直願せるも果さず身延山へ請願書を奉呈するも御回答を得ず長崎本蓮等に依頼し大光山に懇請するも納れ玉はず因是明治廿二年より野衲に渡韓を申來ること幾十度今日來釜何卒多年の宿望を聞き届け云々と申されし故右運動の爲め二週間の在留加藤文敎を留めて八月十六日船の都合にて長州馬關に着す先年よりの縁故も有之は長崎へ航り本蓮寺貫名日聯殿に照會せしに釜山別院設置同感の由仍ち願書に調印相成る夫より歸路肥前小郡郡に尊神の像を得て朝鮮に運送大坂にて參宝京都にて高僧の木造を求め併せて朝鮮に送り軈て東上小林鶏渓両僧正の副願書を得始めて朝鮮在留領事へ別院設置を出願し十一月廿五日付を以て願済を辱ふす尚又別院設置の家屋建物敷地の件に付き東西奔走昨冬十二月越後國より下總中山及武州横浜に往還し加藤文敎は朝鮮に駐りて布敎に事務に以て内外相応じ運動に怠りなきも右別院は參宝高祖尊神清正公木造及び緋縮緬の水引壱張打鳴一口御經二部の外は具はらず内外完備の義聊かもなし(以下略)
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