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記事題目

「朝鮮に於ける西派勢力」

作者

雑誌名

『中外日報』

号数等

年月日

1912年10月24日

本文

○西本願寺の今年度の朝鮮開敎費は一萬七千圓なるが、其目下經営中の事業を聞くに京城別院新築はその重なるものなり、今の仮別院は五十畳ばかりより敷けぬ狭いものにして毎月定例の説敎や日曜學校に子供の集まるのにも狭い程なり、永久的の本堂、庫裏等は少くとも十萬圓を投じ五六年間の継續事業にして落成せしむる都合の由なるが、夫まで今の狭きものにては不都合此上もなきを以て仮本堂を建てざるべからずと去る七月一日に話が始つて思ひ立ち終に此程上棟式を擧行したるが來る十一月十一日此の仮本堂に於いて報恩講を修行するまでに捗取り居り由、仮本堂は間口八間、奥行十一間にして約百坪ばかりのものゝ由、此外に香房、飛櫓等も設けあり、工費は約八千圓にして工事監督は京城で有名なる參好和參郎氏なる由、此工費は殆ど在京城の信徒に依つて募集したるものなるが、大薮まさ二百圓、梶原末太郎百五十圓等參百餘人の寄付に成りたるものなりと。
○京城別院少年會は去る四月七日に産声を擧げたるものにして山内、村田両布敎使擔任に係るものなるが今や六百五十名の少年集りつゝあり。
○同じく京城別院に双行會と云ふがある、これは京城市に於ける紳士を集むを以て目的とする會なるが、目下會員八十名を有せり、其重なるものは貿易商の梶原末太郎、煙草商久保田貞吉二氏等にして前原布敎使主任と成りて京城の紳士を集めるに苦心しつゝあり。
○京城佛敎婦人會は本年初めは僅か七十名の内外の少數に過ぎざりしが、其後そが發展に全力を盡したる結果今や五百名を算するに至り、毎月二回づつ例會を開き博士、學士其他京城知名の人を招きて有益なる講話を請い佛敎的感化と相俟つて之が婦徳の涵養に勉めつゝある由。
(以下、各地の状況を略記するも省略)
○朝鮮に於ける布敎使は合計參十名あるが、尚ほ朝鮮の寺院僧侶にして西本願寺に歸化し居るものは現今二百八十名の多數なり。

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