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記事題目

「朝鮮の人に真の宗敎心を植付けたい 内鮮佛敎徒の覺醒と奮起とを望む」

作者

朝鮮總督府警務局長 丸山鶴吉

雑誌名

『中外日報』

号数等

年月日

1923年11月20・21日

本文

朝鮮には真に宗敎といふものがない。それが爲め寂しい悶えの心を慰藉して安心立命を與へる根深い力がない、朝鮮には古來は佛敎が隆んで新羅高麗時代の燦然たる文化は佛敎の普及の結果でその時代程朝鮮の民情の安定した事はなからうと思ふ。然るに李朝になつて儒敎の關係から佛敎の圧迫迫害となつてあの參十本山二千餘個寺の堂々たる伽藍は今尚厳として名山優勝の地に存して居るに拘らず僧侶は非人以下に取扱はれて京城市内等には立入ることすら禁制せられた五百年の長い年月を經過したので、僧侶は賤民と化し殿堂は荒廃に歸し佛敎は其の精神を失ひ感化力を滅却してしまつて鮮人の信仰の上には何等力のないものとなり下つた。(中略)
基督敎も今から五十年前熱心なる布敎者の活動によつて相當の伝導をされたけれど基督敎によつて朝鮮の人心を導くといふ程にまでは至らない。その布敎も腐敗堕落せる韓國政治の欠陥を利用して宗敎の蔭に隠れて秕政の惨禍を免れるというふ意味の政略的信徒が多くて本統に進行的の入敎者は少なかつた訳である。今や少數の愚夫愚婦の信仰を縛いでは居るけれど、古い猶太敎に近い様な現在の朝鮮の伝道方法では到底新朝鮮の信仰を覺醒さして行く力はない。敎養ある青年は外國人の基督敎から段々離れて行く傾向が著しい。そして日本佛敎は如何かと見るに多くの寺院もあり僧侶も渡鮮して居るが其の始めは多くは内地の葬儀を営む営業者と化して積極的に朝鮮人の心の信仰を動かさうとて稀で宗敎として鮮人には何等の影響もなかつたといつてよい。(中略)
然し醒めざるべからざる時期は既に到達して居るのである。朝鮮は往古から佛敎の潜在觀念は民族の間に濃厚にあるし、東洋民族として東洋思想の淵源なる佛敎的信仰は可成り根深い根柢を民族思想の内に彫んでゐるから、茲に新生命を與へられた朝鮮佛敎が覺醒して熱心なる布敎伝道が行はれ、信仰の光明を放つこととなれば、そこに潜在せる佛敎信仰が俄然として非常な勢で隆興することゝ思ふ。この点に氣付いて朝鮮僧侶の間に新しい活動を起すべき機運が熟しつゝある。只前謂ふた通りで人物に欠乏しゝゝて居る朝鮮佛敎界が、速かに此の革新の前途に大同團結が出來ないことを惜むものである。内地に於て修行を積んで居られる朝鮮僧侶も可成りあるので、孰れ覺醒の大音声を擧げられる時期が到達することゝ思ふし、日本佛敎徒者の方でも猛然たる勢で鮮人諸君の間の伝導にも努力を捧げられる傾向にあり、社會事業的にも鮮人の間に佛敎的信仰を植付ける施設も進行して來て真に宗敎的の信仰を鮮人の間に呼起す第一歩は踏み出された様である。何分言葉の關係もあるが外國宣敎師が熱心に鮮語を勉強し鮮人の喰物を喰べて鮮語で伝導布敎して居ることを思へば、日本僧侶にも熱心さへあれば出來ないことでない。此等の点に着眼して其の趣旨で修業されて居る日本僧侶も出て、遠く北間島方面に乗込んで鮮人の間に献身的に佛敎伝導に従事されて居る日本僧侶も出來て來た。朝鮮佛敎の覺醒と日本佛敎の活躍との間に聯絡が充分に付き、相提携して佛陀の霊光を真劒に輝かすことが出來たならどの位朝鮮の方々の幸福になるかも知れない。外に多くの宗敎もあるが、僕は朝鮮に於てはこの光輝ある歴史ある佛敎により宗敎的信仰を普遍的に真面目に導くことが最も捷径であり健實であり自然であると思ふ。此意味に於て内鮮佛敎徒の覺醒を望む切なるものがある。(十一、十參)

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