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記事題目

「朝鮮佛敎團の法人組織」

作者

主幹中村參笑

雑誌名

『朝鮮佛敎』

号数等

14

年月日

1925年6月

本文

【一】朝鮮佛敎大會は、其の組織を變更し、會名を改めて朝鮮佛敎團と稱し、同時に財團法人組織の申請を、其の筋に提出中であつたが、其の筋に於ては朝鮮佛敎團が、堅實にして信用ある敎團たることを認められ、五月六日附を以て朝鮮總督より認許さるゝに至つた。是に於て朝鮮佛敎團は、法人としての人格を具へ堂々潤歩し得るに至つた。實に全團のために祝福に堪へない處である。
【二】佛敎團は、半島に於ける佛敎界の不振を慨し、之が復興を圖るべく、大正九年發起されたのである。而して此の計劃の一たび世に發表さるゝや、官民有志にして此擧を賛せざるものなく、忽ちにして數千の會員を擁するに至つた。而して毎月六囘餘の例會を開き、又は臨時に名士を招聘して講演會を開催し、敬老會を催して年老者を慰安し、又時には共同墓地に於ける無緣の亡靈を慰むる等、數へ來れば其の講席實に數百囘の多きに達し、其の講席に列したるもの亦十數萬の多衆を見るに至つた。是れは全く地上其の匹儔を見ざる處にして、今や佛敎復興の時機に際會したと謂つても差支へなからう。實に空前の盛事と謂はねばならぬ。又將來朝鮮の布敎に從事すべき同團の内地留學生は、豫ねて人選中ありし處、此程愈々決定を見優秀なる五名の鮮人青年を既に東京に派遣さるゝに至つたのは、朝鮮精神界のため誠に幸慶に堪へない次第である。
【參】然るに事の茲に至りたるは、決して偶然にあらず。是れ全く團長以下役員諸氏の熱心と、官民諸賢の尠からざる同情と後援とに依るものである。然れども本社々長小林源六氏の篤志が無かつたならば、恐らくは今日の盛事を見ることは出來なかつたと謂つても差支へあるまい。此會が初めて發起された時は、參會者も相當多かつた、然るに此の多數の參會者は、當時會館を有しなかつた。經費の出處も亦頗る疑問であつた。此時に當つて、小林源六氏は、此擧のために會館を提供し、少からざる金品を出して會務の進行を便ならしめた。若し此の小林源六氏が無かつたならば、此の會の如きも、恐らくは世の常の、雨後筍的團體の運命と全く同一經路を辿つたであらう。 
【四】大正十參年正月、總會を開催して積極的方針を定め、大々的に其の計劃を進めんとするや、小林源六氏は、卒先して本會の基金中に十萬圓を寄附された。是に於て乎同會に於ては、此れを基金として、直ちに財團に組織すべき筈なりしが、中央政府は勿論、先づ中央に於ける各方面の援助を得て、而して後財團を組織するも亦決して遅からじとなし、東京に向つて運動の歩進めたが、政府當局を初め、貴衆両院の重立つ者各宗管長各宗聯合會其の他有力なる實業團及び敎界の權威たる澤柳、高楠兩博士其他の賛成を得たるを以て、茲に組織を改め諸規定を制定し、財團法人の認許を申請し、今囘芽出度の認許を受くるに至つたのである。
【五】然るに本團は、其の内部の組織に於ても、其の目的に於ても亦其の事業に於ても、全く外護の機關であることは説明を要しない。古來歴史を繙いて見れば、凡そ宗敎の盛なるは、其祖師開山の獻身的努力に依りたる諸有司の外護が無かつたならば、或はあれほどの隆與を見ることが出來なかつたかも知れない。朝鮮の佛敎が李朝に至つて衰退したのも、新羅、高麗の外護宜しきを得たるに反して、全く其の外護を失ひ、剰さへ壓迫を加へられたことが、その重なる原因であつた。今や此の好機に際しつゝ然かも佛敎界の不振なのは外護者なきに依ると謂つてよい。かの基督敎の盛なるも、米國に於ける傳道會社の如き、有力なる外護の機關の活動が大なる力を添へつゝあることは、否定すべからざる事實である。同團に對し動もされば、一種の宗派にても立つるが如く孝ふるものなきにあらざるも、そは全く誤解にして、同團は其の團則に明記せる如く、宗派を超越し、我が半島民衆をして、苟くも半島精神界のために盡さむとするものゝためには、飽くまでも外護をなさむとするものである。
 吾人は、茲に財團法人の設立を祝し、併せて有終の美を済さむことを禱りて巳まざるものである。

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