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記事題目

「朝鮮來信」

作者

雑誌名

『京都新報』

号数等

年月日

1896年3月15日

本文

春川の暴動竝に高田氏遭難の顛末は已に本紙に掲載せし所なるが今ま在釜山花崎鎮氏より山口某氏の許に達せし書信を得たれば左に掲載す、(中略)
○朝鮮の商況は随分面白く將來倍有望にあるべけれども敎況に至つては實に寒心せざるべからず従來大谷派の盡力に由り釜山、元山、仁川京城に別院或は支院を建設され大に布敎に盡力せんとの計畫ありしも殿堂建設其他種々の事情に由り中止となり唯居留民の葬祭を掌るのみにて継續し來りしが今猶ほ其舊態を改むる能はず開敎師は葬祭を以て本職とせるが如く隨て居留民の布敎も緩慢に傾く状あり曩きには元山にあれ京城にあれ居留民子弟の敎育は開敎師の手に掌握され大に布敎の功を奏せしが先年何にか故あつて京城は開敎師の手より分離せしが其原因は居留民が本願寺を忌みしにもあらず又敎育上不都合と認めしにもあらず唯開敎師に故あつての分離なれば現今の開敎師松見氏は之を恢復し敎育上に光輝を加へんとの計畫中なれば早晩之が恢復を見るべしと雖へども元山は今日迄以前開敎師の掌中に在るが如くにして其實は京城同様故あつて昨年五月限り學校と開敎師は全く分離せしが僅に開敎師の弥縫策にて今日迄継續するも今にして回復の策を講ぜざれば到底永續すべきものにあらず而して其他に布敎の機關とも称すべきものあれども有名無實にして敎社の腐敗せるもの多し中にも元山の如きは其最たるものに非ざる歟真宗以外には唯日蓮宗あれども之れ亦大同小異なり尅實すれば韓民布敎は云ふに及ばず居留民の布敎さへ覺束なき次第なり而してキリスト敎は如何魯佛宣敎師が十數年間困苦を嘗めて布敎せし結果は當度の暴民に於て大に見るべきものあり日本人を倭奴と呼べども外國人を洋國大人と称し日本人には害を加へ荷物を奪へども外國人に対しては決して害を加へざるのみならず大に尊敬を表するなり是に就ても朝鮮布敎は啻に宗敎家の本分なるのみならず國民の本分と感ぜらるゝなり
○海外布敎に従事せんと欲するもの身命を犠牲に供するの覺悟あるは勿論なれども多數の中には或は海外布敎の耳新らしき爲め軽率にも之に従事せんと欲するもの萬々一小も之れありとせば宜しく速に斷念すべし他國は知らず此の朝鮮國の如きは實に其困難の極度なるべし餘は渡韓以來聞くこと見ること毎に失望的に意外なるもの多し故に布敎の爲め渡韓せんと欲するものは名利を思はず忍耐と剛毅と徳義に富める人に非ざれば不可なり而して本山の當路者に於ても巡敎師を遇するが如き敎誨師を遇するが如きは待遇に非ずして光分開敎師を慰藉し鼓舞するの方法を設け両々相扶くるの途に出でざれば決して功を奏せざるなり當路者に於て是を慰藉し是を鼓舞するの方法は漸を追ふて之を行ふも遅からざれども現今の學生諸氏が能く其任に堪ふるの人のみなるや否や餘は杞憂に堪へざるなり故に餘は此の朝鮮國の布敎に従事せんとするの諸氏に勧告せんとす長州下の關より參圓の滊船賃を投せば釜山に達するを得るなり釜山を去る七里許の田舎に梵行寺と云ふ寺あり此の寺に賽し數日間滞留せば田舎人民の風俗習慣を知るに足る能く其風俗習慣を悉知し是をしも能く化するの能力ありと確信せし後ち其學校に入學せば餘が如き失望的には陥らざるべし

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