植民地朝鮮の日本人宗教者
記事題目
「朝鮮來信要略」
作者
雑誌名
『京都新報』
号数等
年月日
1896年3月11・13日
本文
在朝鮮高田栖岸氏より佐々木鴻熈佐々木狂介、両氏に宛てし來信中目下朝鮮の實況に關する項を節略して左に掲載す(中略)
通川府の市中を通過する日は通川府の大市にて人も數千の群集平穏の時と雖も外國人通過すれば酒狂悪漢等はグツへ呼る風の所に此地の府使県令郡守等も皆な逃げ去り無政府の市なれば幾何の難を招かんと心に心配し府市に入るや小生は眼を怒らし笞杖二十斗りも馬尻に打ちしに馬も飛か如走り群集して見るに馬夫は決して日本人と呼ばず洋國大人と常に韓人に語り亦曰洋國は米國人かと問斗へば俄國人と対ふ俄國は露國の事なり此地方は大に俄國佛國の牧師に伝導され意外に両國の強國と恐れ敬ひ小生の通過中鉄原金化金城准陽通川の無政府地に限り西洋崇拝の風起りしに驚く事に候先年旅行中は支那人を呼ぶに大國人と呼西洋人を洋人日本人を倭人或倭奴と呼しが吁意外に西洋を崇むる風の起りしは全く宣敎師牧師が數年の伝導に勞苦を窮めし結果たる事を今初め感し候亦た賊の達令にも各村里に到る其趣旨を聞くに此度の乱党に加さる村里は悉く焼払ふと亦日本人を接待する家を焼き其者も殺害す亦倭奴通過す見ば何者と無く眺さず殺害すべし然し洋國人は決して妨害する莫れ大事に保護すべしとの事にて是には或は先年閔字政の時米國人ニーラト氏親兵を訓練せしに依り其等の徒此内に加わり如上の達令を發せしかは知られざれ共一般外國人を崇拝するの風を引起せしは全く數十年の牧師の布敎の功と謂ふべし抑も此地の開敎方と又韓語生則新伝導使の配當地は小生聊か審査を致せば此の次便にて細密に報道し御參考に供せんと存候先づ此地開敎には日本内地の巡敎使にては到底六ヶ敷候先づ奉敎の爲め吾身は献げ此世に無き者と覺悟有之度候當時は有形儀式的の布敎は到底出來ず候熱心寺を建立せば一時は立つも元來真宗の根本なき土地なれば一時変すれば倭寺は焼払と却て難を招くこと多く生し候且亦此度韓語の伝導師十人あれば其内に五人位は悪漢の爲めに死する者と初めより御覺悟なされて勉められ度候僅かに居留地日本葬式退夜に目當て伝導者たる○派の僧病死の人は數知れず已に居留地近傍にて悪漢に捕はれ小刀にてなぶり殺しに逢者初めは二人あり亦た佛國牧師も初め伝導使は全く五人行方知れずに相成今日其人死生判然せず亦其後五人入りし其時は大院君が外敎防禦の制限敷四人は全く内地にて殺され一人丈逃遜本國に歸り公使となり來り國際談判を開き京城の地を得て亦再び僧となり來り盛大なる敎會堂を立て一昨日病死せし其後各道に各國牧師入り十萬以上の信徒を生じ目下の結果と相成候小生六本の足指が身替となり一命は助かりしが此後の大難を負人は韓語學の開敎者にあり尚申度事は后便に匆々