植民地朝鮮の日本人宗教者
記事題目
「朝鮮開敎」
作者
廣安真随氏談
雑誌名
『中外日報』
号数等
年月日
1918年9月28日
本文
(中略)衲の朝鮮開敎は明治參十參年からであつが當時開敎院では常行念佛をオツ始めて京城の名物の一つのなつて居つた、衲は之より曩き今の支那の公使林權助を △京城公使館に訪問したとき林公使は曰く「餘宗は早くから朝鮮布敎を始めてくれたが内地人の葬祭が本義で鮮人布敎はやつて居らぬ、内地人布敎なら別に朝鮮などに來てくれぬでもよい」との事であつたから衲も之には同感であり是非共鮮人対手の布敎をと返答した、而して開敎院の門標に直接鮮語で書いた、時の參益領事が之を見て衲に向ひ貴下の鮮人開敎は誠に結構であると大いに喜んでくだされた、事實開敎院へは宮女始め多數の鮮人が來てナムアミターブル、をシャン、カン、シヤン、カンと鉦、太鼓入りで參昧に一日參千遍を称へた、其後參十六年に日本へ歸り常時念佛は暫く継續して居たものゝ經済上の都合もあり中絶したが再び △一昨年開敎監督として衲が赴任以來復興し今回毎日百人内外の鮮人が出入して居る、實際念佛などは子供の遊戯のようだと何も知らぬ人は云ふが念佛の声が即ち浄土宗である、浄土の敎理が如何に熾んに研究されても念佛が無くなれば本家は無くなつたのである、此外朝鮮では妙心寺の後藤文學士が師家として禅宗布敎を始めたが同氏は中々の人物だと見へて遅入であるのに非常な發展をして居る、朝鮮人の佛敎は由來禅と念佛であるから両者は今後共充分活動しなくてはならぬ、衲も今後は萬難を排して相當の資金を募り朝鮮に先づ學校を建て各地に伝道會を組織し之を終生の事業としたい考へであるが前記後藤氏の如き宗旨もわきまへ學問もあると云ふ文武両道の達人を見出す事はむづかしい、宗門でも △念佛の行者は學問にうとく學者は道心がない、困つた事である、萬一學問もあり道心も堅固な僧侶があればそれこそ鬼に金棒、虎に角である、衲は切に宗門の學者諸君が真に念佛の行者となつて大いに宗敎的活動をして貰ひたい、云々。