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記事題目

「朝鮮開敎發祥の地に 佛敎専門學校創立されん 龍山本願寺の活動」

作者

雑誌名

『本願寺新報』

号数等

年月日

1940年5月15日

本文

婦人會○○長の鈴木ツネ(七八)といふお婆さんも來て、本願寺創立當時の○○をくわしく語つてくれた。
鈴木ツネさんは、參重県○明寺の門徒で、明治四年に李王朝の紙○をすくために來たさうである。來て二年して天○局の人が死んだが、葬式をたのむお寺さんが無く、どうやら大神宮の方に鐘がなるのでお寺も・・・・られるのかもしれぬといふので遠道を探しに行つた。探しあてたのでが南山の東本願寺で八疊の部屋一つぐらゐの家であつたが、こゝにたのんでやつと葬式をすますことが出來た。こんな状態で鈴木さんたちは本派の門徒であり、早く西本願寺が出來てくれゝばいゝと思つてゐると、明治參十九年十一月十參日に本願寺の布敎使が仁川に上陸して十七日にこゝに來て留つたのである。早速本堂が○つたが、それと前後して南山でも東の本堂が○つた。が、當時門徒といつてもほんのわづかであつた。本願寺によく參るものもある代り悪口をいつたりする者もあつた。さうした対象を相手にこの本堂を根拠に布敎をつゞけてゐたが、大正六年八月十日に火災が起り本堂は焼け、大正十年に現在の本堂が竣工したのである。
龍山本願寺はかうした由緒のある所である。朝鮮別院としては京城若草町に移転したので龍山本願寺(本堂は○○寺と呼ぶ)としてこの地に千あまりの門徒をもつてをり、こゝの敎化方面では日校(百名)、佛青(五十名)、女子佛青(六十名)、婦人會(五百名)、信會(五十名)がある。信友會は婦人會に対して男子、つまり戸主の會である。婦人會、女子佛青は月に二回、青年會と信友會は月一回、日校は、毎日曜に開催されるが、結氷期は非常にかうした集會の開催が○○といふ。(中略)
次に報告しておきたいことは、先に書いた朝鮮佛敎の中央専門學校が近く校名を変更して一科を增し、朝鮮に於ける佛敎の最高學府として華々しく登場する○○である。この學校は、財團法人○○中央敎務院が昭和二年に創設したもので、十參年間、十回にわたつて百七十名の卒業生を出してゐる。が○○○の○○は六十萬圓で、これでは學校もこれ以上發展の見込がなしとされ、近く總督府から「○○○本山令」といふ○○令が○布されるらしいので、(朝鮮では○○法は施行されず)この機會に現在朝鮮寺院參十一本山末寺がその所有してゐる林野一町歩につき一圓の割で金を出したら百參十萬圓の財○になるので總督府はこゝに目をつけ、これにより年一萬五千圓程度の學校經費を倍加させ、校名も「○化専門學校」とし、人文科か哲學科を新設するものらしい而かも募集人員も增加して今後百名とするものと見られる。これに対して總督府は非常に○○的であり、朝鮮佛敎による朝鮮人の敎化指導が段々強力に拡充されると思はれるので、内鮮一體が叫ばれてゐる時であり、日本佛敎の内容的指導が期待されていゝのではないかと考へられる。支那の佛敎にも日本政府はかうして何かの方法で官僚的な管理と統制を試みるのではないであろうか。尚、朝鮮佛敎敎務院の○○理事は○○といふ半島出身者である。
また、○○にも佛敎學校が○○した。これは○北の相○寺、○海寺、○○寺、○○寺、○林寺の五本山が聯合して「五山佛敎學校」の設立を申請中であつたが、最近にいたつて認可されたのでで、修業年限は五年とし設立することになつたのである。學校は水川郡清○○○海寺の境内におき、校長は立正大學を出た金東○といふ人で、八日に開校したといふ。(以下略)(本社特派上原弘毅)

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