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植民地朝鮮の日本人宗教者
記事題目
「朝鮮馬山に 社會敎化團設立 洞宗の日鮮融和の一策」
作者
雑誌名
『中外日報』
号数等
年月日
1924年6月28日
本文
曹洞宗にては朝鮮馬山に駐在布敎師として大正八年以來光英博明氏を派遣してゐるが同氏は渡韓以來意を社會敎化事業に注ぎ最初鮮人勞働者の子女數名を集め本堂に於て夜學校なるものを開始し自費自給を以て鮮人指導に盡瘁してゐたが頗る好成績にて遂には申込者全部の収容不可能に至り人員を特に百十名と制限し大正十一年十一月には其筋の認可を得後地方費より五十圓國庫より參百圓宛補助金があるが現在學生は男子八五名女子參五名合計百二十名にて參組に編成し内地人敎師一名無報酬鮮人敎師參名にて、毎夜參時間國語朝鮮語及び漢文算術修身の五科目を修學せしめ勉めて善良たる性格を注入し智徳體の參育に勉め二ヶ年を以て卒業さしてゐるが今回新校舎建設の必要に迫られたるを機とし時代の要求に鑑み「社會敎化團」なるものを組織した。これは素より上下協力一致して國本を明に共存共栄の實を擧ぐ可く汎る主義を打つて一丸としたるものにて鮮人敎化部、文章伝道部、各地講演部、活動写真部の四班に分れ前記の鮮人夜學敎化部が擔當し今後益々拡張し校舎竣工の暁には普通學校卒業生の實業補習科及び授産場を新設する計畫にて總督府内務局長竝に慶南道知事及内務部長等が極力便宜を與へてゐる
目下光英氏は東上宗務院當局と種々打合す所があつたが宗務院當局にては大正十一年以來毎年二百圓宛の補助を下付してゐる關係もあり極力海外布敎に留意しつゝあるこの際とて特に補助便宜を與へて宗門の日鮮融和の一策にしたいと言ふ方針であると。
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