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記事題目

「水雲敎と大派歸属とその將來性」

作者

池浦南洋(大派朝鮮開敎監督部)

雑誌名

『中外日報』

号数等

年月日

1937年3月14・16・17・18・19日

本文

東學系の流れをくむ類似宗敎の一つとして、大正より昭和にかけて、朝鮮民衆の間に偉大なる力を有してゐた水雲敎が、春まだ浅き一月、佛敎本然の姿に立ちかへり敎主李象龍氏以下五千の信徒全部をあげて東本願寺に歸属し、半島はおろか全日本宗敎界に偉大なるセンセイションを起こしてゐる折柄、今月十六日李象龍氏以下幹部十二名、東本願寺に於て正式に得度受式する事になつた。此際に當り水雲敎と歸属の顛末及び類似宗敎の將來性、朝鮮に於ける宗敎の動向を論ずるものもあながち無益の事ではなかろうと思い、茲に筆を執り識者の意見を質さんと思う。
(一)水雲敎の發生
朝鮮に於ける類似宗敎は皇紀二五二〇年、慶北慶州に崔済愚(號水雲)なるもの出て天主敎の思想に影響され之を東洋化せんとし、西來せるキリスト敎、西學に対して東學なる一派を創唱した。この一派成立するや今まで儒、佛、道、いづれも無氣力にて何等なすべきもなく、平原にさまよえる民衆は翕然と東學敎を信仰した。その後七十七年その間幾多の類似宗敎排出しその多き時には七十餘種に及び現在の統計を調査しても六十種を超えてゐる。
朝鮮宗敎史の内容は、固有の巫覡信仰である。天地間に偉大なる霊力存在しこの霊の意を伝へるのが巫覡であるという思想が根本となつてゐる。その他大部分支那からの伝來で朝鮮固有の宗敎は皆無である。又それだけに一體系を備えた類似宗敎の發生は、朝鮮における新興宗敎として、朝鮮文化史上特筆大書すべきものであつた。
これ等新興宗敎としての類似宗敎の特異性は、儒、佛、道參敎を總合しその上に天主敎敎義を加味したものである。各參敎總合の思想は古くから伝はる思想であつたが、此の參敎が既に無力に等しき時、これ等を總合した一宗敎團體、東學の發生は如何に民衆の信仰の的なりしかは想像に餘りある所である。
水雲敎も亦東學の派生したものといわれてゐるが、本敎については先ず李像龍その人について知る必要がある。
李像龍は本年九十五歳、東學の敎祖崔済愚と同様慶州の生れ、六歳の時、父母に死別し、頼る所もなく、佛國寺に入りて出家し、その後梁山通度寺、智異山大圓庵、金剛山楡帖寺に於て修業し「生前萬事亨通、死後極樂往生」を本願として一心に觀世音を念し精進をつづけてゐると或時、夢うつつに袈裟をつけた僧形があらわれ「我こそ觀音音なり、汝精進して、菩提を大覺せよ」と激励され彼は夢かとばかり驚喜し一層精進堅固に信心をこらした。その後彼は大悟徹底しそれ以後何等の煩悩も欲求もなく、その後は雲水を友とし名山名刹行脚に身を任せ、或は木實を食し、或は洞窟に獣と共に宿るといふ無爲自然の生活を續けた。
李象龍は忠南青陽郡道成庵に巡鍚し足をとゞむること約十年某両班が施主となり寺を建てるから敎へをたてよとの勧めがあつた。そこで彼は朴性具等とはかり、日本に佛敎の隆盛なるを聞き、佛敎を基とし儒敎仙道を加味した宗敎を創立せんとし東學敎祖崔済愚は佛の後身であるを以つて彼を敎祖とし他の崔済愚を敎祖と仰ぎ東學系の侍天敎天道敎と区別せんために敎名を水雲敎(崔済愚の號である)と名づけて開敎した。
かくて入敎者の增加に従ひ大正十二年本部を京城に移し布敎に専心した。時宛も天道敎は新舊両派の紛争中であつたので天道敎使、侍天敎徒の転入するものが續出し遂に本館を拡張し各地に分館を設置するの盛況を呈するに到つた。
水雲敎はは開敎以來驚くべき勢ひで信徒を吸収したが勢ひの盛んなるに信徒の勢ひも亦すさまじく「敎主李象は崔済愚の再生である」と言ふ評判が因となり天道敎との間に確執がが生じ、李象龍は大正十四年私宅忠南大徳郡炭洞面に新築移転した。
次いで昭和二年、同錦屏山下に天壇を築き、水雲敎ぼ本山とし、同四年本館もこゝに移転した。それは錦屏山下に百萬の市民を容れる都が出來ると云ふ遺言によるものだと云はれてゐる。
(二)水雲敎の敎義
水雲敎の敎義は前述の如く儒佛仙參合の無量大道を娑婆世界に宣布する敎宗であり、事人如天を主義として永世の幸樂を求め、徳を天下に布きて廣く蒼生を済ひ、國を輔け民を安ずるを以つてその目的とし之がためには諸佛諸天を崇拝し、先聖を慕仰し諸般の禮○を天壇に於いて擧行し、規定に定むる敬天、拝佛、呪文、清水、功徳米の至誠を恪守すべしといふにある。
然らば、敬天、拝佛の対象は何かといへば、それには先づ天壇から述べねばならぬ。この天壇は風水上好適の地たる錦屏山下の明堂に無量の大道を娑婆世界に宣布する根本道場として立てられた建物で、内外丹青の美粧を凝らし、南正面の上部に「兜率天」なる金文字を掲げ内部には北壁一面に兜率天を象形し堂中に參基の六層佛塔を安置し、以つて尊仰すべき宇宙を縮圖表現したものである。即ち兜率天は星座をもつて天界、自然界を代表し、佛塔は六階ををもつて人界を代表し天人の冥合を具體的に表現したものである。
佛塔は阿弥陀塔(中)金剛塔(右)無量塔(左)と參基で各塔とも同一型の四面六層である。
かくの如く天神を星座に依つて表現し人霊を佛塔によつて表現したものは蓋し拝天拝佛の信者をして星辰の光輝に照らされながら即ち自然の恩恵に浴しながら理想的人格たる仙官、佛、菩薩の境地に入らん事を○願したものに外ならぬ。
本敎は原則として天壇に參集して禮式を擧行することになつてゐるが、地方の敎徒は支部又は宣敎所の天壇に於いて、又事故ありて支部又は宣敎所にも參集し得ない場合には、家庭に於いて擧行する様各家庭に紙刷の佛像を配布してこれを家庭の天壇となさしめてゐる。
水雲敎の大派歸属とその將來性(二)
修行及び事業の概略を示さば次の如きものである。敎典には呪文・清水・祈祷・法日(毎日曜參集)・功徳米の致減五欸を恪守すべき旨規定してゐるが、信者日常の行法としては、毎日早朝起床して身體を清め天壇に禮拝して小禮拝を勤行し、禮拝終わつてしばし黙告祈願する。その黙告祈願の目的は上求菩提、下化衆生である。朝夕の炊飯に際しては禮佛敬天の誠意を表する爲に一匙宛の功徳米を除蓄し、之を敎本部に納入して敎團の維持活動に奉賽する事になつてゐる
なお本敎では敎徒の信心增進身心保安の爲に各種の呪符を用ふるが就中
受氣符 これを拝持すれば拝持すれば拝天拝佛の信心を強くし且つ所願を成就し一切の災厄を除きて一身の安泰なるを得る
元身佛符 これは釈迦牟尼佛の偶像であり、これは一刻も佛を忘れざる爲である。
本敎は敎の事業とし昨今當局の方針に順応し、色衣普及の實行、自製草鞋の使用、勤倹貯蓄の實行等敎徒の生活改善にその徹底を期し昭和六年以來本部に學園を創立し、普通學校程度の簡易敎育をなし敎化事業に盡力してゐる。
(參)歸属の顛末
昭和二年本部を炭洞面に移した水雲敎は益々その勢力を拡張し旭日昇天の勢ひで信徒を獲得した。然しこの中には現在の敎義に飽やらず内々佛敎を希望しそれが爲敎義に対して内部にも意見対立の内乱も生ずるに至つた。
元來、朝鮮に於ける類似宗敎はその布敎方法に於て何等かの形で政治的背景があり又迷信的妄説を含むといふ二つの欠陥があるために、當局は絶えず之等類似宗敎に対しては監視の眼を怠らなかつた。たまたま數年來より内地に於いても類似宗敎邪敎取締りの声も高くなり「大本敎」「人の道」と峻厳なる類似宗敎取締り行はれその影響は半島にも及ぼしてその弾圧はますます強くなつた。
又一方思想的方面に於いては、精神作興、國體明徴、心田開發が叫ばれ、一般民衆の心も覺醒され、精神界宗敎界に対する見方も大いに以前とは変つて來た。この間の事情を察知し、半島における有識者、先達の士は半島の類似宗敎に一大警鐘が乱打され、反省を促さねばならぬ時機到來せることを豫期した、又當局に於いても類似宗敎に対し撲滅政策を翳し鋭いメスを加え始め、昨年來より着々實行に取りかかつた。
水雲敎の現在の敎義に偏らずして何等かの改革を要求し、その一方法として佛敎熱が段々熱くなりかけて來た丁度その時機と如上の推移とは殆ど竝行して進んで來た。
敎主李象龍は自己の信仰と時代の推移に鑑み、佛敎転向を請い願い、全信徒に之を圖つた。固より同敎幹部の中には猛然反対するものであり、佛敎転向に対する幾多の論争は絶えなかつた。然しいずれも純宗敎の敎義の尊厳犯すべからざる事を知り如何にも敎義的に組織的に統制のとれてゐる事に対しては屈服せざるえなかつた。
かくして段々佛敎を渇仰するもの多くなり、幹部達も必然遠からざる將來に於いて佛敎転向のやむなき事を知つた。ここに於いて昭和十年、斷乎として舊套を脱し、水雲敎をあらためて弥陀敎とし、同時に天壇南正本堂正面に掲げられた金色燦然たる金兜率天の額は弥陀殿と改められ、星座をあらわした縮圖は剥がれ弥陀尊を中心に觀音勢至の參尊が安置された。
水雲敎の大派歸属とその將來性(四)
たまたま昭和十一年夏、中南論山新都内東本願寺布敎所に於て金貞黙より佛敎講習會を十日間にわたり受講した。此の講習に於て弥陀敎より派遣された四名の代表者は此の講習に対し餘り期待をかけざりしも、十日間の講習を受けてから大いに心境に変化を來たし、佛敎の深淵さに打たれた。本部に歸山するや彼等四人は異口同音に内地佛敎をたたへ、我等も既成宗敎に合同し合法的に大法を宣布せねばならぬと、力説した。又彼李象龍は若くして佛門に入り、六十年も佛道修行をなし佛敎により解脱を得た人である。それだけに他の類似宗敎々主をは全然趣きを異にし佛敎に対する理解も一段と深かつた。彼のこうした佛敎理解が内地佛敎転向に大きな力となつた事は争はれぬ所である。
其後内地佛敎に転向するや否やに対しては何十回となく論戦が繰り返された。その度毎に佛敎に対する關心と理解が深められ、一斉に、佛敎研究熱が高まつた。
その結果同年十二月今度は本部に於て佛敎各派の講師を招請して大々的に講習を開き、全山同心が擧つて之を聴講した。其の結果彼等全部が内地佛敎の偉大さに今更ながら驚異の眼を瞠り、その權威、尊厳を認識した。かくて李象龍は既に佛敎一本に歸する覺悟を決めてゐた所でもあり、一山の同心敎徒に於いても良く理解する所あれば、類似宗敎に類する自家一宗を既成宗敎に合體し、合法的伝道をなし、衆生救済こそ、本願であるとなした。
かくして、一山同心と五千の敎徒とは擧げて東本願寺に歸属せんとするに到つた。
ここに於て本年一月二十四日東本願寺開敎監督上野興仁師は大田東本願寺布敎所に出張し、同所に於て弥陀敎主李象龍氏と會見し歸敬式をあげる事になつた。
(四)弥陀敎の將來と朝鮮類似宗敎の動向
以上の如き經路をたどり水雲敎は弥陀敎となり更に東本願寺に歸属したのであるが、歸属の際李の發した声明書を見るに、その高遠なる理想と真摯な態度がわかるのであるが、その最後に曰く。
「(前略)由來佛敎に國境なく日本佛敎と称し、朝鮮佛敎と称するも本是一なり。況や内鮮人本是一にして、往古佛を重んじて之に歸依する事兄弟も啻ならざりし歴史を有するに於てをや。佛敎の世界的大衆化によりて、家に佛、人に菩薩の地と浄土建設は、古今を問わざる時代の要求なりとす。吾人は此の時機に當たり、時代精神の大衆的見地に順応し真宗大谷派に歸依合流して、先達高徳の周到なる指導啓蒙を仰ぎ、之を體して、一は以て佛敎最善正妙の薀奥を發揮し、一は以て地上浄土建設の使命を達成し、依つて以つて國家隆盛の顯揚に寄與せんと欲し本日を卜して茲に歸依式を擧行するに至れり。然して吾人更に一層勇躍を倍加して斯道に精進し、彼宗我流の隔てなく、能く無碍共通自在の路を開き、而して朝鮮僧侶の世と與に没交渉の弊を破り、而して戸別布敎の積極的進出を期すところあらんとし、佛陀の加護を得て弥陀本願の如顯間遍を達成すれば婆心此に至りて更に餘薀をなし、以つて大方の同意を得る處あらんとす、李象龍」
前記の声明を以つて見ても李象龍が外部的圧迫に堪えかねて内地佛敎に転向したるものでなく、今までの如き參敎總合というが如き擬装に滿足せず、佛敎本來の姿に立ち返り、合法的手段を以て布敎に専心せんとして東本願寺に歸属したことは明かな事である。而して今なほ當局の看視と内心の煩悶に苦しんでゐる他の類似宗敎團體に対して水雲敎内地佛敎転向は、大きな暗示を與えたものといはねばならぬ。
幸い、佛敎復興のこの期に當たり類似宗敎家及びその信徒は宗敎本來の權威、尊厳と使命とを自覺し正道に歸一せねばならぬ、然らざれば類似宗敎も清掃の運命に逢着を覺悟せねばならぬと思ふ。
また當局に於いても、この精神界、宗敎界転換期に當つて、徒らに權力のみを行使せず、真の信仰、誠の幸福を民衆に與える様、懇切丁寧に指導すべきである。同時に異端邪敎乃至はインチキ類似宗敎に対しては、あくまで取締りを厳にして、純正合法の宗敎の普及に努力せねばならぬ、而して、迷へる民心を泰山の安きにおく事こそ當局の最後の希望であらねばならぬ。
一方内地人間宗敎家も従來の如き内地人ばかりに布敎範囲をとどめず、廣く朝鮮同胞にも救いの手をのべ、各派大同團結し之等迷へる類似宗敎團體を善導すべきである。それには今までの如き一時的植民地氣分を捨てて、内地人の尻を追い回さず朝鮮語の一つも研究し朝鮮人の家庭に入り込んで、真に彼等と接触し手を握りあつて指導すべきである。基督敎の今日朝鮮人民衆間に偉大なる勢力を有するは勿論その資本の大なる事にも依るが要はその熱と意氣と耐力である。監督局も之等宗敎家と結束し宗敎本來の使命達成の機運醸成に努力すべきである。幸ひ現今では朝鮮側佛敎參十一本山も一意専心佛敎復興の氣運に乗り、奮起してゐる折柄、朝鮮佛敎とも相互聯携し大法を朝鮮のすみずみまでも響流せねばならぬと思ふ。
兎に角、今こそ朝鮮は宗敎再發足の時であり、佛敎再認識の時である。いづれの宗敎も、これの好期を逸せず、深く人心に喰い入つて彼等の塗炭の苦を救い信仰朝鮮の理想へと邁進せねばならぬ。かくてこそ開敎の使命が達成せられるものである。

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