植民地朝鮮の日本人宗教者
記事題目
「浄土宗の朝鮮伝道過現」
作者
雑誌名
『中外日報』
号数等
年月日
1910年9月11日
本文
浄土宗の朝鮮伝道は、近來各地共頗る發展をなし、中にも京城の如きは餘程好成績を擧げ居れる由なるが、今同宗の該伝道の端緒は現馬山敎會所主任たる參隅田持門師が去參十年單独釜山に渡航し、同宗篤信者松前才助氏等の援助を得て釜山敎會所を設置したることにて、次で同年九月には白石堯海、岩井智海両師朝鮮視察として特派せられ、管長より當時の韓皇帝現在の李太王殿下に『浄土參部妙典』及び我邦の特産を献ず、此視察の結果として同宗は翌參十一年五月敎令を以て朝鮮一圓を開敎区と指定し、白石堯海師を右開敎区監督に任じ、韓僧參名を同高等學院其他に於ひて敎養することゝなりたり、同年九月伊藤祐晃師は京城に、中谷○○○を仁川に○○○○をして○○せられ○地に○○○を設立す、參十二年二月に○白石師監督を辞し、○○○○師之に代る、同年十月○尾師は管長代理として渡韓し、韓皇帝○○太王殿下に謁見す、岡本貫玉、岩井智海、伊藤祐晃參師之に○従す、參十參年四月方語研究生○○○○○開敎院に滞在し、翌月廣安真随師開敎使長として着任し、當時の皇帝竝に皇太子に謁見し、開城及び馬山に敎會所を起し、京城に韓人敎會を設立し、また韓人少年敎會を設けたり、之より參年の間は盛んに其上下に伝道をなし、皇帝、皇后竝に皇太子の○牌を同宗開敎院に奉安するに至る、斯くて參十六年には松岡白雄師、○○師の後を襲ふて開敎院使長となり大ひに敎勢を旺んならしめ、平壌、群山、江景、大邱、鎮南浦、水原、海州等の新敎會所相次で設置されたり、參十八年十二月松岡師辞し、參十九年二月井上玄真師開敎使長に任じ以て今日に至れるものなるが同師赴任以來は敎線愈々拡張され、太田、元山、金州、新幕、新○州、羅南、鬱陵島、公州、○山、○由等の敎會所を新設し、説敎所も數ケ所に建設され、又た敎育事業としては、開城に開城學堂、太田、平壌に日語學校、通度寺中に明進學校ありて益々その發展を圖り居れるが、何れも好成績を擧げつゝあり、以上朝鮮に於ける浄土宗の敎會所は現今二十二、開敎使は四十人にして何れも熱心に伝道に従事し居れり。