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植民地朝鮮の日本人宗教者
記事題目
「清韓に於ける各宗合併」
作者
雑誌名
『中外日報』
号数等
年月日
1904年6月10日
本文
元來一佛敎中に於て小異を争ひ互に区域を築きて割拠的の封建制を墨守するはモハヤ世界大勢を許さゞるところにして何時までも斯る島國根性を離却せざるに於ては日本佛敎は終に文明的宗敎檀より放逐さるゝの不幸に陥るべし、今や征露の一擧よりして日本は忽ち世界強國の範に入り將來永く極東に於ける盟主を以て立たざるべからざるに至りたれば佛敎の世界的發展を試むべきは今日を措て亦好機あるべからず、飽までも國家の膨張に伴ふて敎勢の拡大を勉むべし、畢竟区々たる日本内地に於てこそ各宗派と旗を別にし、六條の小天地に於てこそ東西本願寺を争ふものなれ、一たび此島國を脱出して海の外に遊べば何ぞ宗派の甲乙あらんやとの趣旨を以て先づ差當り清韓二國に於ける戦後布敎に於て東西本願寺を始め自餘各宗派の合併を謀り、之に派遣さるゝ僧侶は決て其本山を名乗らず唯だ一個の日本佛敎者たる資格を以て従事することゝし石川舜台も武田篤初もサテは臨済の釈宗演も日蓮の加藤文敎も一和混合以て日本佛敎の光輝を發揚することにせんとて、熱心に計畫せるものありと云ふ。
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