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記事題目

「滿鮮巡敎所感」

作者

句佛上人談

雑誌名

『中外日報』

号数等

年月日

1917年6月17・20日

本文

西大門の監獄 京城の西大門にある監獄には、鮮人のみの囚人が一千名以上も居ります。私はドウかして無常の法を彼等にも伝へたい態々立ち寄つて一場の講話を試みたが、其の結果は實に面白くないやうに見受けられるのです。通訳ははうまかつたが、こゝが大切の点だと思つて声に力をウンと入れて説いても、囚人共はキヨロリとしてゐる。私はその時に思つた。語學が出來ぬ人間は決して外國人を感化する事は出來ないに違ひないとおもつたたとひ富楼那の弁を振つてやつても駄目です。現に私の力を籠めて法話してゐる時に、彼等は口を開いた儘ポカリンとしてゐる、成る程、布敎家にとりては語學は大切だナと悟りました。
京城の一小學校 校名を失念してゐますが、鮮人の一小學校を參觀しましたが、語學といふ点に於ては實に朝鮮の児童は天才です。読本の中に「或る處へ行つた」とあるのを、敬語になほせといへば直ちに「或る處へ參りました」と言下に答をするなどは、側からみてゐても感服するばかりです、語學の方面はソレ程までに巧みだが、残念な事には法を聴く耳をもちませぬ、今日の鮮人には來世の觀念といふものがないのです、布敎家にとりては心細い事です。
朝鮮の基督敎 朝鮮の到る所に基督敎の敎會堂が天に聳えてゐます、そして信者は澤山あります、朝鮮布敎に一生涯を捧げてゐる外人牧師などは澤山あります、乍併開敎以來果して真の信者を鮮人の中に幾人得たでせうか、實に僅かなものでせう、イヤ全く無いといつてよろしいとおもひます、彼等は安心立命などゝいふことはわからぬと見えます、宗敎の真の意義の上から見ると全くゼロです。
大谷大學に鮮語 大谷大學に朝鮮語でも入れて、大に將來鮮人敎化に盡したらと言ふ人もあり、又左様に思ふものもあるでせうが、私の考ではそれは徒勞であり且つ役に立つにしても迂遠だとおもひます、而して私の鮮人敎化に対する斷案は何かといふに「彼等を完全に敎育し、彼等に大和民族の血を入れよ、而して後に初めて敎を説くべし」といふのです、寧ろ鮮人の天才ともいふべき語學の能力を応用して日本語を一日も早く普及せしめるが捷径であると信じます。

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