植民地朝鮮の日本人宗教者
記事題目
「虎の聯想が米になる 言葉や態度の上の誤解(朝鮮地方視察記(一)」
作者
藤波大圓
雑誌名
『真宗』
号数等
305
年月日
1927年3月
本文
堂々たる人々の 不用意な言葉使ひ
私は昨年十一月初め東京に開催された第參回全國敎化團體代表者會なるものに出席したが驚いたことは二百名餘り集まつた代表者―全國から集まつてゐる代表者といふのであるから恐らくその道にかけては相當研究もし注意も払つてゐる人々と思つてゐたが―の中にその席上度々日鮮融和或は日韓融和といふ言葉がくりかへされたことであつた、不用意と云へば不用意であるが、それが直接そうした事業に従事しつゝあると称する人々或は官吏の中にもあつたのには實にあやしまざるを得ないではないか。かういふ不用意の言葉を平氣で使用する人々のやつてゐる融和事業なるものはその根本精神に於て既に誤解があり、果して成功するかどうかは甚だあやしいと云はねばならぬ。
然しこの種の不用意は實に各方面に甚だ多いのであつて、これが内地人がまだ十分朝鮮といふものを諒解してない爲に起る奇異な現象と云はねばならぬ。かうした氣分から割出された内地人の事業、朝鮮人に対する態度といふものには自ら一種の打とけない芬囲氣がたゞよつてゐてそれがことべに反感を招く直接原因となるのではなからうか。
「内鮮融和」は言葉がいけない
「内鮮融和」とか「鮮人敎化」とかいふ言葉を殊に内地人の口から耳にするのみならず、かういふ言葉を表看板にした事業が今内地にも随分あるが、これが甚だ耳ざわりである、一體なぜ内鮮融和といふ言葉を云ふ必要があるか、殊に鮮人敎化などゝいふ必要が厳密に考へてどこにあるのであるか、この言葉は今非常にいやな他を軽蔑した意味に朝鮮人間には解されてゐるやうである、私は朝鮮の人々から直接に聞いたのではないが、内地人が融和とか、敎化とか云ふ言葉を使ふ反面には既に第一融和しないもの敎化の必要があるものと朝鮮人を認めてゐる。即ち内地人は朝鮮人に対して一種の優越感を持つてゐる第二融和とか敎化とか云ふ言葉で朝鮮人を瞞着しやうとするのである。といふやうな考へが最近敎育を受けた朝鮮人の間に充滿してゐるやうであるこの考へは一種の偏見であるとも云へるけれどもこれらの言葉を使用する内地人の心裡にはたしかにあるスキのあることは事實である、なぜなれば朝鮮人を同一國民と見、心から同朋と感ずるなればかういふ言葉は吾等の口から出ない筈である。まだ一般の内地人は朝鮮人に対する場合、他の内地人に対する場合と一種異なつた感じがとれない者が多いから、かういふ言葉がつくられ、且つ態度の上にも無意識のうちに相違が出て來るのである。(以下略)