top of page

記事題目

「開敎使は永住せよ 光暢法主の朝鮮巡敎所感」

作者

雑誌名

『中外日報』

号数等

年月日

1929年9月21日

本文

參週間に亘つて朝鮮全土を巡敎した東本願寺の大谷光暢法主は智子裏方同伴河崎随行長以下と共に二十日午前十時京都駅着山内役員全部の出迎をうけて本山に入つたが光暢法主の談に
朝鮮全土を巡つて感じた事は開敎の要諦は一時的な腰かけでは駄目でどうしても開敎使は任地に永住する覺悟で無くてはならぬといふことが第一である。總督や政務總監の談にも異質の内鮮融和は佛敎信念の鼓吹によるの外なしといふ事で自分としても本山當局に歸つて一層の努力をせねばならぬと考える。夫れから派内のどんな小さな布敎場に行つても開敎使たちの多年の努力の跡が縷々と示されてゐたのは滿足に思つた。
とあり河崎随行長は今度の巡敎につき朝鮮全土を擧げての歓迎ともいふべき盛況を語り到る處知事府尹○その他の官民が夫人同伴で送迎し京城仁川全州に於る午餐會、京城に於る參日の政務總監四日李王家の午餐會、太王の墓への代拝などから向上會館へ手許金の下付及仁川に於開敎の功勞者として故石川了因、奥村圓心、金色了忍參氏の表彰陸軍墓地にある金色氏の墓への代拝などの話があつた。
尚ほ智子裏方は京城平壌の二女子高等普通學校を參觀して生徒の服装の清楚なるを○へ日本と於ても服装の改善と參考として考慮せねばならぬといふ話があつた。

bottom of page