植民地朝鮮の日本人宗教者
記事題目
「韓國布敎一班」
作者
在釜山 松原○南
雑誌名
『敎學報知』
号数等
年月日
1899年7月25日
本文
真宗本派の布敎師出張所は參十一年九月に初めて中山唯然師渡韓して出張布敎所を當釜山に設け近頃別院か説敎場の許可を本山に得ん爲め歸朝し其が留主居の僧は山口県の小野覺哲師なり信徒は四百名ありと云ふも東本願寺の信徒を數ふるなり毎月一五の日に説敎を爲すに七十名ばかり集まり經費一ヶ月廿五圓宛本山から下付する内で一ヶ月十八圓の借家賃を支払ひ残る七圓と喜捨金で經費を弁じ一ヶ月の經常費は五拾圓位ゐなりと而して別院設置の要なりと云ふを聞くに曰く「釜山の居留千百參戸中西派の門徒が多いから爲めに寺を建てゝやらにやなりませぬ」と此の一語は韓民敎化に意なきを表白せるものなり
要するに釜山における以上の五寺院は説敎葬祭を事とする点に於て内地の寺院と異なるなし葬祭場としては一、二ヶ寺もあれば足るなり望むらくは人の跡を逐ふ如き醜を演ずるを止め馬山浦、木浦、群山浦、鎮南浦、平壌等の各地へ布敎場を設けんとするものに望む所なり、而して釜山居留地に在る信徒を区別すれば真宗の信徒は山口県民に多く浄土宗も亦た然り日蓮宗と真言宗は長崎県民に多くして日蓮は対馬にて真言は壱岐なり、斯くて是れ等の五寺院何れも能く真言祖師の本地垂跡、日蓮祖師の立正安國、浄土及真宗祖師の真俗二諦、王法爲本の宗旨を體し、大日本帝國の中敎を海外に宣敎するに就ての希望、即ち対韓布敎に就ての希望なるものは之より仁川、京城、元山津の現況を報じ而る後に論ずることゝ爲さん、兎に角當釜山開港當初に居留民の數も多からざりし時に於て、幾多困難を排し他に卒先して営々布敎に従事し韓民の敎化にも居留民の敎育にも學校を興し布敎の傍ら其任に當り、慈善事業としては釜山敎社を設け、彼れに是れに二十參年間數拾萬の金を投じ居留民の發達を助け來たりしは東本願寺を以て第一の徳とする所なり