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植民地朝鮮の日本人宗教者
記事題目
「鮮人敎化一助のもと 助産婦志願の二女性 龍田・井垣の日本名も新しく 大派姙産婦相談所に入る」
作者
雑誌名
『中外日報』
号数等
年月日
1936年10月15日
本文
十九と二十歳の可憐な半島女性二名が將來半島人敎化の一助にもと助産婦兼看護婦志願の念止みがたく、きのふ相聯れ立つて遥々と内地に渡り大谷派社會課に現はれたが、この両女性は同派の姙産婦相談所においてみつちり修練を積んだうえで郷國に歸り寺院を中心とする社會事業の上に大に働きかけたいといつて居り同課でも半島人開敎の上に將來これらの女性の献身的な活動が極めて重要な役割を果すことになるものと信じ、大いに前途を嘱望すると共に多大の激励を與へた・・・・・。
その二女性は龍貞姫(二〇)さんと韓和子(一九)さんで目的の京都に着くや否や直ちに本山社會課を訪れたが両女共東本願寺京城別院經営の京城向上女子技芸學校の研究生でつい最近までその敎へ親であつた柴田社會課長(前朝鮮開敎監督)や舘敎學課録事(前同開敎監督部主事)と感激的な対面をなしその熱烈な志望を打明けて相談したので同課長は目下同課において社會事業協會經営の姙産婦相談所に地方寺院出身子女の姙産婦兼看護婦募集中なるを好機として之を同相談所の○見春二氏夫妻に託するに至り、柴田課長がその敎へ子のために名付親となり龍貞姫さんに龍田貞子、韓和子さんに井垣和子の日本名をつけた、かくて健氣な両女は勇躍同相談所の修學生活に入ることになつた、尚ほ大谷派姙産婦相談所は下京区木津屋橋にあり前記○見夫妻が多數の助産婦を統制して主として無産者のために涙ぐましい献身的活動を續け非常な實績をあげてゐる。
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