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植民地朝鮮の日本人宗教者
記事題目
社説「朝鮮御巡化」
作者
雑誌名
『敎海一瀾』
号数等
706
年月日
1925年5月23日
本文
我敎線は漸次拡張せられ、今や京城を中心として、釜山、仁川、平壌を始め、各道到る處寺院布敎所等の設置あらざるなく、現に寺號を公称するもの二十七箇所、なほ開敎使として彼朝鮮に駐留せるもの約八十人を數ふべく、是等開敎使は内地より移住せる我同胞の敎化に従ふのみならず、進んで鮮人敎化の任務に當り、鮮人の風氣を開發し、内鮮民の融合親和を圖るべく、努力しつゝあるのである。
聞くところによれば、我本派管長大谷尊由殿には、親しくこれら敎化の實情を視察し、かつは一般信徒敎導の爲め、來る六月八日京都御出發、朝鮮開敎区へ御巡化あらせらるゝ由、これ實に管長御就任以來初めての盛事なれば、該地信徒の喜びもまさに想ひ知らることである。(中略)
かくて日本に於て發達し、産出せられた新佛敎を彼地に流伝せしめ、以て佛敎伝來の舊誼に酬ゆることは、洵に日本佛敎の栄誉であり、はた日本國民の誇りとすべきところである。然るに従來我鮮地開敎の實情を察するに、其開拓されし敎田は主として内地移住者の間にのみ拡がりて、我れに佛敎を伝へたるものゝ末裔たる彼鮮民に対しては甚だ不親切きわまるやうに見られるのである。いはゞ開敎とはいふものゝ、其實は内地布敎の延長であり、正しき開敎の意味が失はれてゐるやうな感じがされる。こはもちろん經費其他人物欠乏等の理由によれるならんも、いつまでかゝる消極的態度を支持して、積極的開敎の實を擧ぐる能はざるは、我日本佛敎の恥辱であり、面目次第もないわけである。されば此際我管長台下の御巡化は、何とかして我一流の開敎上更新の機運を打開し、鮮人敎化の實を擧げしむる機縁を熟せしめんことを念願したい。
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