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植民地朝鮮の日本人宗教者
記事題目
「京城の太子街着々進む 太子の日鮮關係が興味ある聯續」
作者
雑誌名
『中外日報』
号数等
年月日
1926年11月18日
本文
朝鮮の佛敎復興の爲めとて京城を中心に全鮮に亘る建築業者の組合たる太子講と官民にて組織して居る聖徳會(委員長は朝鮮佛敎團の前田昇氏)等が主となり京城の長谷川町に日本の文化の母たる聖徳太子を中に脇師に觀音と太子の師たる朝鮮人慧慈法師を祀り、これを中心に調子をグツト下げた東京の浅草寺を思はせる盛り場の新市街を作ることの計畫は曾て報じたるところであるが、その後同計畫は着々進捗して居る、元來同町にあつた佛堂を改築して面目を改めることになり各方面の理解を得て頗る力を○められて之が實現は近きにあるといふ。尚ほこの計畫は聖徳太子が日本文化の母である上にその師が鮮人の慧慈法師といふ両者の關係が興味あるものとなり意外の進展を見つゝある由。
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