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記事題目

「内鮮融和と佛敎(朝鮮施政二十五年際して)」

作者

東亜佛敎協和會副會長 李元錫

雑誌名

『中外日報』

号数等

年月日

1935年10月19・20・21日

本文

朝鮮施政二十五年に際して朝鮮の現状を如實に述べたいのである。我が朝鮮は二十五年間に於ける物質上の進歩は確に顯著であるが、精神上に於ける朝鮮人心の融和に就いては今後に爲すべきもの甚だ多いのである。(中略)過去二十五年間の政策は朝鮮の土地本位の政策であつて朝鮮の人間本位の政策ではなかつたのである。又は内地人本位の政策であつて朝鮮人本位の政策でないことが今日の結果を見て隠すことが出來ない事實である。國民生活と社會生活の上に政治の力、經済の力、武力、勝利の力が根本の力となつて生活するのであるが今日の朝鮮人は全くこの力がない爲めに、随つて生活がどん底に落ちて苦しむのである。いくら物質方面が進歩しても實力がなければ利用することが出來ない。汽車、汽船があつて交通が便宜でも金がなければ乗ることが出來ぬ。立派な家屋、土地があつても自分の權利がなければ利用が出來ない。今日の朝鮮人は物質文明を利用することが出來ない状態になつて居るのである。朝鮮人を救ふには先づ權利を與へ實力を與へて生活を向上させて内地人同様の生活をさせなければ本當の内鮮融和が出來ないのである。茲に佛敎の精神が必要である。佛敎の精神とは即ち慈悲心と平等心である。この精神に依つて朝鮮參千萬同胞を救ふことが出來るのである。慈悲心と平等心とは即ち一視同仁の御精神である。一視は即ち慈悲であり同仁は即ち平等である。畏くも明治大帝の大御心を體得して實行するならば内鮮融和は實現されるのである。内鮮融和といふ標語は朝鮮人だけに行はしむることでなく内地人も行はねばならぬのである。内地人の行ふべき心持は慈悲心と平等心である。即ち同情心と無差別の觀念である。朝鮮に対する一切の權利と力が内地人にあるから内地人が朝鮮人に力を與へ同情して同じ國民に取扱はなければ内鮮融和は出來ない。民族觀念を超越して朝鮮人即ち日本人と思ひ、土地觀念を超越して朝鮮土地は即ち日本國土と思うて植民地觀念を突破せぬばならぬ。其時始めて内鮮一體となつて精進すれば精神的内鮮融和が現はれるのである。この境地に達すれば内鮮融和といふ言葉までなくなつて全く不二の境界である。何事も心が先であるからこの心掛を持たないで、たゞ朝鮮人だけ内鮮融和せよというても出來るものでない。(中略)過去廿五年間は以上述べたやうなものであるが今後の二十五年間は佛敎の精神に依り内鮮融和を圖り朝鮮人本位の政策を以て朝鮮人の生活を向上させて共存共栄を望む次第である。これを實現されるのには内地七千萬人が菩薩の心を以て朝鮮參千萬同胞を救ふ心持ちで邁進せねばならぬ。

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