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記事題目

「朝鮮問題と佛敎」

作者

加藤咄堂

雑誌名

『明敎新誌』

号数等

年月日

1894年6月26日

本文

吾人は先づ彼れ國が何によつて疲弊し、何によつてその独立の實を失ふに至れるかを査究せざるべからず、然れども國の衰ふるや多くの原因はこれ伴随し乱れて麻の如く、秩序的に其の大原因を討ぬるは非常の難事たりと雖、吾人は少くとも否な寧ろ尤も多くの部分は佛敎の替廃それが原因たりと云はんとするなり。(中略)歴史は佛敎の國家独立に要あるを明言せるにあらずや、
朝鮮をして尤も平和に独立國たるの位地を得せしむるもの宗敎的感化の外、策あるべからざるなり、之れ其の病を尋ねて藥を與ふるもの、佛敎の活氣を以て彼れに浴せしめ、彼れが元氣を作興し、彼れをして大義名分を知らしめ、彼れをして國家的觀念を旺盛ならしむ、此れ實に我か善隣の交を通する所以にして、彼れをして永遠平和なる独立を得せしむの好方便なり、若し夫れ勢ひ許すべんば、基督敎の所謂救世軍の如き佛敎的團體を組織するも可なり、徒に一時の平和を彌縫して永遠の畫策をなすなくんば此の半死的朝鮮國をして安全ならしむる能はざるなり、聞く欧洲各國の國を奪はんとするや、先づ宗敎を送りて其の國民を感化し以て呑囁の噬を逞しうすと、吾人か朝鮮に布敎せんとするは敢てかゝる目的にあらず、併も此の手段を以てよく彼の独立を保維し得べきを信ずるなり、吾人は敢て手段の如何を問はず、目的は彼の独立を保証するにあるのみ、

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