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植民地朝鮮の日本人宗教者
記事題目
「朝鮮國通信」
作者
雑誌名
『日宗新報』
号数等
410
年月日
1891年10月13日
本文
同國釜山港は東南海にして西北は山脈聯接せり海上には僅かに船舶四五艘を繋ぐ斗りにて山の質は總て石山にて爲めに樹木の大なるは見ず山の下に田畑ありて參百有餘の農家散在せり日本人居留地は十丁四方位にして家屋は八百軒餘に別れ殆んど旅人宿様の感ありて人口八千參百人餘もあり人情は至て沈着にて何事も神佛に依頼する事なれば信心厚き事は比類なく宗敎は敎派に別れあるとも重なるは大谷派別院と當説敎所のみ葬儀等は本願寺にて執り行ひ來れり畢竟本宗の説敎所も無僧なりし故表面の儀式を本願寺に頼みし也今回妙覺寺別院の名称を以て設立する事を其筋に出願の都合なれば不日信者も眉を開くの時至る可と又敎育の如きは簡易校より高等小學迄の設けありて子弟を敎育す神社は市街の中央に一社あり金比羅と太神宮清正公の參尊を併祠せり政治は領事館警察署及び惣代役所なる者ありて都督せり衛生は病院の設けあり夫れに衛生會なる者を起し専ら健康に注意さるゝ等至らざるはなし(以下略)
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