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記事題目

「朝鮮弘敎建言」

作者

奥村圓心

雑誌名

『朝鮮國布敎日誌』

『真宗史料集成第11巻維新期の真宗』

号数等

年月日

1880年11月26日

本文

二十六日 意見書ヲ執事ニ差出ス。左ノ如シ。
朝鮮弘敎建言
夫レ佛敎無上ノ法ナリト云ヘトモ、独立スヘカラス。必スヤ國王大臣ノ保護ヲ得テ弘通スル事ヲ得タリ。已ニ我國、皇帝陛下ノ崇敬シ玉フニヨリ、大臣已下庶民ニ至ルマテ一人トシテ是レ障碍スルヲ得ス。堂々トシテ國内ニ弘敎セリ。是佛徳祖恩ノ爾シムル處トイヘトモ、亦國家保護ノ恩アレハ也。况ンヤ他國ニ於テヲヤ。故ニ近年西洋各國ノ敎師我國ニ弘敎スル、先ツ始ニ官途顯貴ノ士ニ説テ、終ニ今日ノ形勢ニ及ヘリ。爾レトモ幸ニ要路ノ士、早ク彼レカ姦策アル事ヲ知テ信仰セサルニヨリ、佛敎亦盛大ナルヲ得タリ。危哉岌々乎タリ。然レハ弘敎ハ國王大臣ノ保護ト不保護トニ因リテ盛衰ヲ認ムルト云モ誣言ニアラサル也。今我大敎正殿下、佛祖報恩ノ念慮深厚ニ在々シ、已ニ明治九年、支那國上海ヘ別院ヲ開キ、十年ニ朝鮮ニ法旗ヲ颺玉フ。不肖圓心此擧ニ會シ、辱モ恩命ヲ奉シテ朝鮮國釜山港ニ渡航シ、不日ニ別院ヲ開設シ、十參年ニ亦咸鏡道元山開港ニ因テ、同港ヘ説敎場ヲ建築シ、二諦ノ宗義ヲ演説スルニ、両港ヘ往來ノ僧俗皆応機ノ良法ナリトテ、漸信徒ト認ル者アリ。爾レトモ朝鮮政府、外敎ヲ信スルヲ許サゞレバ、公然我宗義ヲ施行スル難シ。故ニ両國ノ交誼日ニ月ニ親密ナル事ヲ祈念スルニ、爰ニ弘敎ノ時機至レルニヤ、朝鮮國ノ有志我別院説敎場ニ因テ、内情ヲ日本政府ニ通スルニヨリ、此有志士ハ接不接ニ限ラス交誼親密ナリ。此輩ラ志ヲ得テ闡明ノ運ニ至ラハ、イカテカ我真宗弘敎ヲ障碍スルヲ得ンヤ。今日朝鮮國政府ノ事情ヲ察スルニ、日本政府ノ懇情ヲ恋慕スル意頻リニシテ、世態維新一年ヲ出サルベシ。此度花房公使朝鮮國ニ航セハ、仁川開港必ス成リ、餘件モ亦諾スヘシ。爰ニ於テ我宗敎一日モ緩フスルベカラズ。速ニ政府ト同日ニ京城、仁川ノ間ニ勝地ヲトシテ堂宇ヲ建築シ、称スルニ本願寺ヲ以テシ、八道ノ寺院ヲ總轄スルノ形勢ヲ示サハ、朝鮮政府ニ於テ、何ソ是ヲ等閑ニ看過センヤ。今日ノ有志士必ス保護ノ一端ヲ加フルハ疑ハス。若シ如此ノ時機ニ至レハ恐ナカラ御聯枝方ノ内御一名、主任ニナラセラレ坐シテ、法威ヲ八道ニ示シ玉ハバ、勞ハ半ニシテ功ハ倍セン。今日朝鮮ノ有志士、我本願寺ノ高貴ト盛大ハ飽マテ信知スル事ナレハ、何カ軽蔑ヲ加ヘンヤ。必ス敬禮ヲ厚フスヘシ。是實ニ弘敎ノ基礎ニシテ、法威ヲ以テ八道ノ僧俗ヲ風靡スルノ好機會ナレハ、等閑ニ看過スヘキニアラス。依テ望ム、執事閣下、朝鮮國ノ事情変遷ヲ洞察シ、宗風ヲ飛揚シテ、八道ノ人民ヲ救済シ玉ハン事ヲ。目撃ノ事情黙止難ク、謹テ微思ヲ表呈ス。恐惶敬白
朝鮮國元山港説敎場出張
七級出仕 奥村圓心
明治十參年十一月十九日
執事 權中敎正篠原順明殿

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