植民地朝鮮の日本人宗教者
記事題目
「朝鮮英字紙に現れた 向上會館の新運動」
作者
雑誌名
『中外日報』
号数等
年月日
1921年7月5日
本文
京城にシウールプレスといふ英字紙があるが六月二十六日の紙上に左の如く朝鮮の佛敎の過去と現在とを略叙した後日本佛敎徒の朝鮮に於ける活動を略述してゐる。
朝鮮に於る 日本佛敎僧侶の伝道は隆盛とはいへないが真宗は六十餘年前に伝道を開始し浄土及曹洞もやつて來た。併合後は其數を增加しつゝあるが其仕事は主として日本人に限られてゐる様で朝鮮人間に佛敎を復興する様な進行は少ない。朝鮮全土に六十參ヶ寺二百二十六布敎所あつて十四萬四千七百〇參人の信者中鮮人一萬七千九百九十六人を含んでゐる。鮮人間に於ける基敎徒の貢献した進歩を考へると前の數字は日本の佛敎僧侶の能力に多くを置けぬのであるが、
僧侶の指導 者は夫を知つてもつと活力ある宣伝を行はうと企てゝゐる。吾々は最初に伝來した真宗、南山の麓に於ける本願寺の本部が現代的計畫を起す事を聞いて喜びに堪へない。本願寺の渓内監督が發表した趣意書に依ると向上會館と称する建物を西門外(曾て日本公使館のあつた)の千二百坪の地上に建築するといふのである。本館は二階建煉瓦造りの二百坪餘りのもので仕事場や寄宿舎や其他の付属建物も置くので費用の總計は建物と設備とを合して
十二萬圓で 一ヶ年間の經常費は一萬五千圓を要するといふゝのである。會館では宗敎及私學の講座を設け書籍の出版をも行ひ貧民の児童を敎育する月謝のいらぬ學校を開き仕事場では木工科鉄工科及裁縫科の授業を開始する。京城に於ける主要なる日本人で其多數は富裕なる人々がこの称讃すべき事業の後援者であるから所要の經費は多大の困難なく調達され計畫は近き將來に實現される様子である。如上の渓内監督及後援者の計畫は基敎青年會の
運動の方針 によれるものである。現今京城には鮮人の爲めと日本人との爲めに二個の基督敎青年會があつて優秀な事業をやつてゐるが然し夫だけで全領域に行き亘つてゐるとは言へないのであつて其處に佛敎徒が足を踏み出し友誼的態度で基敎徒と競つて京城に於ける鮮人及び日本人の道徳的向上をはかるべき領域が佛敎徒のために残されてゐる、公衆は必ずこの渓内監督及其友人に強き援助を與へ推奨すべき計畫をなし遂げしめる事と信ずる。」