植民地朝鮮の日本人宗教者
記事題目
「朝鮮釜山妙覺寺別院」
作者
雑誌名
『日宗新報』
号数等
418
年月日
1892年2月5日
本文
旭日苗僧正入韓して一別院を設立せられし事は兼て日宗新報に掲載する所ありしが今僧正の入韓以來今日に至る迄事務進捗の概略を報導せんに昨年釜山港信徒本県録司より僧正に対し布敎の爲め渡韓あらんことを懇願に及びしかば同年八月十七日自山御發足にて同廿九日同港へ御着相成りし所信徒と云ふは廿七八名にて一致團結せる模様もなく私称説敎所を云ふものも名あつて實なく參宝様一體も無之状態にて大に嘆息の折柄信徒等聯印して同港へ大谷派と斉しく貴山別院設立被成下度しと一片の請願書を差出せしかば僧正には直に御承諾あり随行加藤文敎師は布敎竝に事務整理の爲め滞韓に決し旭僧正には別院設立の運動其他内外御用務の都合にて御歸朝と定まり同港御發船馬關へ着夫より長崎本蓮寺へ御參向別院設置の御協議を經て後御歸京の途、肥前にて身の長け一尺九寸許の鬼子母尊前御經二巻打鳴一箇御買上げ御運送同大坂にて一塔二尊京都にて祖師の像いづれもニ尺餘の諸像を御運送に相成り進んで御東上設置願書部頭惣代との聯印を要め宗局よりは副願を得て本願書に添へ書類總て十參通我駐在領事館へ届出の爲め釜山表へ御送付の上僧正には北越へ御下向されたり而して釜山の方にては我領事より十一月廿五日付を以て別院公称認可の指令ありたれども地所譲受委任状の件に付き再び僧正を煩はすの止を得ざるに至り僧正には再び東上書類整頓の上釜山へ御逓送にて萬般政府への手數相済み信徒の請願と僧正の東奔西走の勞とに拠り先づ別院設立の企畫爰に貫徹したるなりと尚ほ客月廿五日發行新報第四百十四號雑報欄内朝鮮駐在加藤文敎師と題する項中内外完備の四字見へたるが此内外完備とは外政府の公許信徒の固結等を指したるものにて決して寺院内外完備せりと云ふにあらず洋々參宝祖師鬼子母尊神等僧正の御運送に依り安置せしのみにて荘厳とて毫も備はらず家屋は人家同様にて半鐘打敷天蓋等寺院に枢要なる物品更に頓はず此上は内地本宗當路者及び篤志家の翼賛を得て荘厳を首め參間なり五間なり梵宇建築し度と信徒竝に加藤師より僧正へ請願し僧正にも其思召にて不日各本山當路者篤志家の門を叩き応分の協賛を仰ぎ素志を全ふする御心算の由なれば愛國護法を以て任とする本宗當路者篤志家には爲宗奮つて御盡力御翼賛の程只管希望して止まざるなりと加藤師より通信の儘正誤旁茲に付記しぬ