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記事題目

「朝鮮開敎と四宗派の失敗」

作者

雑誌名

『中外日報』

号数等

年月日

1911年9月7日

本文

朝鮮の開敎に就ては各宗各派共熱心に種々活動の計畫又は實行をなしつゝあるが、某消息通の談に依れば、真宗東西両派竝も曹洞、日蓮の二宗は何れも一の失敗をなし居れり、先づ東派にては昨年合邦後聯枝を派遣しゝて特に李大王に拝謁せしめんとしたるが、時の總督府總務部長有吉忠一氏は、拝謁の必要なしとて之を許可せざりしがば聯枝は大に面目を失し、延ひて開敎上尠からざる損失を招きたり、西派にては故巌妃の屋敷たりし慶善宮を得て同所に内地の寺院を移転せしむる計畫あり其爲め開敎總監大洲鉄然師京城に來るべしとは去五月頃京城の一新聞の伝ふる所なりしが、大洲師は渡鮮したるも只だ要地の視察をなしたるのもにて歸京したるが、其際總督府に対し千五百餘坪の地所の賃下げを出願したるも却下されたりとの噂あり、若し果して然りとせば之れ亦た確かに失敗たり、曹洞宗は圓宗々務院の設立計畫に就て盡力し又た朝鮮寺院の開發に關し李晦光師一派と密約して大いに爲す所あらんとせしも、同宗務院設立の事は總督府より認可されず、且つ裏面に活動し居たる武田範之師を失ふあり、爲めに最初の計畫大半頽れて遂に失敗を招くに至れり、日蓮宗に在りては昨年佐野宗務總監主唱の下に、静岡の本山蓮永寺を移鮮せしむることに決し、總監自ら渡鮮して其移転候補地を選定し之を平壌と定めたるも、其實は京城を希望し、當時總督府に対して京城に千五百坪の地所の賃下げを願ひ出でたりしも却下せられたりとの事なり、其爲め本山移鮮の事は其の後殆んど沙汰止みの如くなり居るが、之れも確かに失敗なりき云々と云へり。

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