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植民地朝鮮の日本人宗教者
記事題目
「滿鮮開敎の改良点」
作者
雑誌名
『中外日報』
号数等
年月日
1917年5月25日
本文
大谷派が年々僅か二十萬圓内外の經常豫算の内から滿鮮布敎費に七八千圓内外の布敎費を投じつゝあることは・・・・(判読できず)・・・・然るに滿鮮に於ける布敎は本山敎學部が常に豫想し○たる處と大分違ふ点がある、その布敎は云はゞ内地人の法要參りにして鮮人布敎には少しも着手して居ない又將來に於いて着手せんとする布敎使も多くない、その内地人の布敎にしても只現状維持の姿にて進撃的の布敎法のあるを認めない、斯くては本願寺が困難な會計から多額の費用を割いて投じつゝあることが、無意味に終つて遺憾である、
要するに朝鮮は各宗本山の充分に手を着けて居り此上の布敎は真に人物を待つて行はるゝものにて尋常の手段にては進歩の方法も六ケ敷く、従つて一寺を建立せんと希望しても土地に依つては随分な苦勞である、これに反して滿州は南滿鉄道會社が總べての中心に成つて居るだけに、總べてが大陸的であつて而も商業的であるから官公吏も朝鮮の如く威張らず人民を抑圧する風が非常に少きは事實なれば夫か忽ち布敎と云はずと何と云はず總べての方面に大いなる影響を受ける、従つて一寺を建立せんとことを企畫しても朝鮮に比して大いなる困難を感ぜざることは隠れなき事實である、
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