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植民地朝鮮の日本人宗教者
記事題目
「西本願寺開敎史に 畫期的具體案 異民族開敎で近く答申」
作者
雑誌名
『中外日報』
号数等
年月日
1942年7月24日
本文
大東亞戦の展開に伴ひ西本願寺では開敎敎線の發展が要求されてゐるにかんがみ光照法主は今春本山に鮮、滿、北支、中南支、南方の開敎總長及關係要務者を招いて最初の開敎總長會議を開いたがその後光照法主から「従來の海外開敎は殆んど海外人即ち異民族に対してなれなかつたがこの大東亞戦と共に斯る状態の開敎はゆるされぬ、進んで異民族の開敎に當らねばならぬが之に対し各開敎總長たちは如何なる抱負をもつてゐるかまた其の具體的な方法方策を示せ」との諮問を受けてゐたので之に答申すべく曾報の如く開敎總長たちとして最初の催したる大聯關東別院に於る現地開敎總長會議となり、本山から豊田興亞部長も參加し議を練つた、協議内容は興亞部長の手より成案され不日法主に答申することとなつた、案の内容は厳秘にされてゐるが大體重なる論点(方策の内容)等について豊田部長は談る
その内容については御法主にまだ申し上げてゐないので詳述は許されぬが一、二これを發表すると敎界がアツトいはせる具體案がありますがこれだけは特に今發表しないでおいて下さい。概して問題の中心は所謂異民族の開敎問題といふことが協議の中心であつた訳ですが、それには大東亞共栄圏内の國々が内地と相互に留學生を派遣し合ひ人的な交流をはかること、敎育機關の設置、社會事業の開創や共栄圏内の諸宗敎の敎化方法の討議もしました、その他具體的な宗門の開敎方針について成文し不日答申することになつてゐます。
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