植民地朝鮮の日本人宗教者
記事題目
「西派に圧倒されつゝある大谷派の朝鮮開敎」
作者
雑誌名
『中外日報』
号数等
年月日
1912年7月4日
本文
最近京城より東上せる某宗僧侶の談に依れば、京城に於てはもとより全朝鮮の大谷派開敎は近來甚だしく振はず、此儘にして經過せば數年を待たずして西派の爲めに圧倒され手も足も出し難きに及ぶべしといへり、朝鮮開敎の先鞭は正しく大谷派なれば適當なる開敎使と相當なる經費を有したらんには目下の朝鮮佛敎は大谷派の掌中にあるべき筈なるも近來開敎費を縮少著しきためと、開敎使その人を得ざるが爲めに京城の如きは昨春井波輪番南山の本願寺を出でゝより代りとして赴任せる某々新學士等は信徒の歸向するにはあまりに軽く、殊に京城は十中九分九厘まで西派の居留民なるを以て直ちに西派の布敎使に取去られたり、南山の東本願寺が山上にあるため冬季は寒風を覆ふて老人小児は到底阪路を攀づる能はざるはつまらぬ事のやうなれど大原因を爲す、これに引かへて西派が二千坪の敷地を買入れ、仮出張所を設けた地は永樂町參丁目なれば、參詣者にとりては此上もばき便宜なり、大谷派が學校を閉鎖せるに反して、西派は佛敎高等學院に大に力を用ひ、鮮人男女各一名の敎師に佛敎大學の留學生參名加はり熱心に鮮人佛敎青年僧侶の薫陶に努めつゝあり只今にては六十名の生徒を収容し大に期待せるものあり、普通學院も亦た漸次隆盛に趣きつつあれば、京城の佛敎界は既に大谷派従來の戦力範囲を殆ど折半されたるが如き觀あり、仁川に於ては九州の傑僧八淵蟠龍の一の子分たる武田老師大元氣を以て開敎に勤勉しこれまた大に見るべき成績あるも大谷派は振はず、釜山の如きは井上輪番の肝取事件以來大谷派の大の字を見たゞけにても町民は面をそむけて通る位の不人氣なり、大谷派の朝鮮布敎は此くの如く哀れなる有様を以て継續されつゝありろか、大谷派のために惜しまざるを得ず。とと