植民地朝鮮の日本人宗教者
記事題目
「韓國木浦開敎に対する鄙見」
作者
在木浦 西山覺流
雑誌名
『敎學報知』
号数等
年月日
1899年6
月13・15
日
本文
是より眼を転じて従來大谷派が巨萬の資財と幾多の人物を投ぜし韓國布敎は如何なる手段を以て施設せられしや又幾何の功績を収められしやに就て推考するを得んに
諸開港場の未だ殷盛を極めざるに卒先して弘敎と敎育との事業を振興し直接に弘敎を謀りしは瞭々として明らかなり、故に韓國開港場に於ける布敎と敎育との卒先者は誰なるやと問はゞ何人も大谷派本願寺なりと答ふるに躊躇するものはあらざるなり、釜山、仁川、元山及び京城、光洲の弘敎事業に対し忌憚なく謂事を得せしめば釜山、仁川、元山の別支院は大谷派外の宗派と対して如何なる地位に在る乎居留民間に於て如何なる待遇を受けつゝある乎と云に付て仔細に審査を遂ぐる時は晩近渡韓せし日蓮、真言、浄土等の各宗寺院も總へて平等の位置にありて決して頭角を擧げて一歩を踰したるにもあらず、却て本派外の宗派に於ては現世の禁厭祈祷の爲に縦令皮相にもせよ或る一種の社會に於ては或る一種の勢力を得つゝあるや明かなり、然らば大谷派が卒先盡瘁せし弘敎と敎育との偉功果たして何の處にかある居留地民會の未だ幼稚にして資力なき際に於ては専ら本派の庇護により以て敎育の發達を得、縦令不完全ながらも就學児童をして徒らに歳月を送たしむることなく幾分か敎育の徳澤を享けしめしは争ふ可らざる事實なりとす、而して稍や居留地民會の地歩を進め漸く独立するを得るの際には當該別院又は支院に対し敎育事業の引渡を請求し別院又は支院は之に応ずるの止を得ざるに至るのみならず、數多の歳月を經るに順て遂に大谷派の偉績は業に已に遺忘れられ殆んど居留民の脳裡に存するを認むるに難せしむ實に切歯慨嘆の至りならずや、
若し其弘敎方針の主眼は居留地民にあらずして韓國民に在りとせば見聞する處に於て著しき功績の觀るもの之あるを聞かざるなり、
是より本浦將來の弘敎方策に就て下款に之を述べんと欲す、木浦港は上に叙述する諸開港場に後れて今や開敎に着手せんとしつゝある處なり、故に此際既往に鑑み將來を慮て慎重なる攻究を凝らし充分なる方策を建てざる可らず、茲に參箇の條項に因て以て將來弘敎の方法を講ぜんと欲す、
一、 木浦支院を全羅道布敎の本拠と成し併て居留民の弘敎を主掌する處となす事
二、 完全なる小學校を設置し廣く日韓両國の子弟を敎養し將來弘敎の基礎を固め併て居留民との關係を保持する機關となす事
三、 大谷派中學創業程以上の留學生を置き専ら韓語を習得せしめ熟達の上は韓國の布敎に従事盡瘁せしむる事